カテゴリー: 随感
タイム誌、追悼の白黒表紙
仕事を遊びのように
仕事を道楽にせよ 経営に従事する者は、社にいると、家にいると、車の上にあるとを論ぜず、四六時中、経営のために憂き身をやつして、しかも余裕綽々たるためには、仕事を道楽化することが必要である (鹿島守之助翁)
仕事は遊びとは違う、と思っていると、退屈で苦痛の仕事になってしまう。人が生まれてきたのは「遊ぶ」ため。そう考えると、仕事を遊びのようにできる境地に至りたいもの。
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
小学生の頃、かるた大会に備えて、意味もわからず、百人一首をいやいや覚えていた上田です。一気に初夏がやってくる、こんな季節には
「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
という持統天皇の歌が最高です。女性である持統天皇が、最近まで冷たかった水が気持ちよくなって、晴れ上がった日の午前中、ご自身で洗濯をしつつ、若くして亡くなった夫の天武天皇を香具山に見立てて、「あなた、今日は天気がいいから、お洗濯日なのよ~」なんて、高らかに言いながら、真っ白な洗濯物を干している、そんな映像を思い浮かべてみてください。
日本が誇る世界最古レベルの女流歌人の一人・持統天皇の晴れ晴れとした爽やかな気持ちをきっと共有できるはずです(笑)
子どもはなぜサンタクロースを信じなくなるのか
「子どもはなぜサンタクロースを信じなくなるのか?」という論文が面白い。
「幼児期の終わりから児童期中頃にかけて論理的思考力や懐疑主義を身に着けるようになると、子どもはこれまで棚上げにしていた数々のサンタクロース神話をめぐる矛盾点に改めて疑いの目を向け、それらを見破るようになる。
プレゼントの隠し場所や包み紙に関する見破り、プレゼントを置く瞬間の目撃、サンタクロースが受け取ったはずの手紙の発見、手紙やプレゼントの中身に対する疑惑などが引き金となり、子どもは次第にサンタクロースの存在を信じなくなる。
その一方で、サンタクロースを信じようとする心も併せ持っており、子どもの心は両者の間を揺れ動いている。」
結局、年長の兄弟姉妹か友達がばらすか、親自身がうっかり失言してしまうことで、サンタクロースへの不信に拍車がかかり、真実を知った子ども達は、まだ知らない他の子ども達へ打ち明けたくてたまらなくなり、真実を話す、というのがその理由だ(笑)
なぜサンタクロースを信じなくなったか、私自身は思い出せないが・・・確かに信じていた自分がいたのは確か。あの頃が懐かしい。
思い出せますか? メリークリスマス! (^O^)/
論文はこちら
https://mie-u.repo.nii.ac.jp/…
私が監修に関わった「クリスマスキャロル」はこちら
https://amzn.to/2seXE8F
生まれる時と葬られる時の姿勢は同じ
WIPカレンダー(2019版)「絶滅しそうな言語、絶滅した言語」
11月:ドマー語 話者:340人(パキスタン最北部)
「シン」=手足を縮めて身を小さくすること(生まれる時と葬られる時)
話者数が340人ということは、言語としての絶滅は免れないだろう。
言語は違うが、日本語で「シン」は、身であり、深であり、慎であり、神であるので、実は深いところで言語がつながっているのかもしれない。「シーン」とした不思議な静寂がそこ(あの世とこの言葉)にあるような・・(笑)
あの世からこの世へ渡る時、この世からあの世へ渡る時、旅に不安があるせいか、怖いと思う時、身構える時と同じ姿勢になるのは不思議。
秋の心と書いて「愁い」
「君看双眼色、不語似無愁」(きみみよ、そうがんのいろ、かたらざれば、うれいなきににたり)という良寛さんが愛した有名な言葉がある。
「さあ、私のこの二つの目を見てみなさい。何も語らないと何一つ愁いがないように見えるかもしれない。しかし本当はそうではないんだよ。本当に伝えたいものがある時、本当に深い思いがある時、最後は言葉では伝えられないんだよ。」という含意か。
小学生時代、良寛さまの演劇をしたことを思い出す。役回りは村の子どもだったような、裏方だったような(笑)
悟りは文字では伝えられないという禅の教えに通じる。どれだけ詳細なマニュアルを渡しても、自転車に乗れるかというとそうではないから。
言葉で伝えられることと伝えられないことがある、という当たり前のことを改めて思う。
( 画像:良寛記念館より http://www.ryokan-kinenkan.jp/ )
今は昔 摩周湖に 老婆ありけり
今では世界2位の透明度となったが、1931年に透明度41.6mという未だ破られていない世界最高記録を誇る湖、摩周湖。
巨大噴火で生まれた窪地に水がたまったらしいが、7000年前というから比較的新しい「巨大水たまり」だ。
ここには物語がある。
昔昔あるところで、アイヌ人の村同士の争いがあり、ある老婆と孫が命からがら逃げる道中で互いにはぐれてしまった。老婆は孫を探しさまようが見つからず、摩周湖にたどり着いた。
しかし、疲労困憊の老婆はそこから動けず来る日も来る日もそこで孫を待ち続け、とうとう島になってしまった。
今でも、誰かが近付くと老婆は孫が現れたかと喜んで嬉し涙を流す。その涙が雨であり霧なのだ、という悲しくて切ない物語。
画像左奥の湖面に寂しそうに浮かんでいる小島にお気づきだろうか。あいにく私は嬉し涙に出会えなかった。
みなさんが行かれた時にどうなるか。この物語を思い出してみてください。
知床の 絶景を前に 言葉なし
(表現が見当たらない。ずっとこの風景を観ていたい・・)
やったるわい 言えば元気が 湧いてくる
「やったるわい!」とこぶしを上げて叫びたくなるドラマがある。昭和の関西テレビ『どてらい男(やつ)』だ。
私の名前は、父が好きだった西郷輝彦から採られた。福井出身の主人公が大阪に丁稚奉公に出るところも私の祖父と同じ。私自身も社会人のスタートは大阪だったので主人公と同じ。以前から観たかったドラマだった。
Amazon(京都ch)にあることが判明し、毎晩家内と少しずつ観ていたが、「本編~戦後編」で終了(涙)。「どてらい男ロス」になってしまった(笑)
因みに原作のモデルとなった山本猛夫氏とドラマのあらすじはこちら → https://www.yamazen.co.jp/museum/drama/story/
観れば「やったるわい!」と叫びたくなること請け合い。昔の大阪商人のバイタリティが理解できるだろう。
久方ぶりに「男の作法」を読んだ
面白い。だが、池波翁の美意識をそのまま飲み込んだ25歳頃と読後感が違う。私の意見と少し違うかな、と思える箇所が生まれたということだ。
100%、翁に合わせる必要はない。美意識の基準は一つではなく、自分なりの「かっこ良さ」「かっこ悪さ」の基準を持つことが大事だと思う年になったということに気付く読後だった。
もちろん未読の男性には一読を勧めたい。
2018年の漢字は「越」
みなさん、新年あけましておめでとうございます。今年は戌年ですね。
さて、カーネギー著「人を動かす」の「人に好かれる原則」の最初に登場するのは犬。番犬などもいますが、多くの犬は人間に愛情を示すだけで食べていく動物です。ニワトリは卵を産むし、牛は牛乳を出す。しかし犬は尻尾を振って夢中になって人に好意と関心を示すだけで生きていきます。これって凄くないですか!?私たちは働かないと食べていけませんが、犬は仕事をせずとも尻尾を振って喜ぶだけで食べていけるんです(笑)
そんな犬に倣って、出会う人一人ひとり、どんな人でどんなお役目と問題意識を持っているのか、今年はより一層、関心を寄せる年にしたいと思います。
そして、私は「越(こし)」の国の出身。「越(こし)」とは越前・越中・越後を指します。能登や加賀が入ってない?大昔の能登・加賀は越前だったんです。それに因んで「越(こえる)」という字を今年は掲げます。
「越(こえる)」という字は「走る戌」と書きます。犬に倣ってもっと早く走っていきたく。会社も個人も色んな壁にあたりますが、今年一年、健康に気をつけて、一緒に色んな壁を越えていきましょう!
「正確に話すこと」と「わかりやすく話すこと」はなかなか両立しない
「正確に話すこと」と「わかりやすく話すこと」はなかなか両立しない。宗教関連の本を読むたび、そう思う。宗教に携わる人はいい加減なことは言いたくない、真面目な人ほどなるべく正確に話そうとする。しかし、そうすればするほど、わかりにくくなる。
当時、浄土宗・浄土真宗が画期的だったのは、誰だって死ぬのは怖い、でも「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽に行けますよ、なぜなら、仏さま(阿弥陀仏)は悪い人も含めてすべての人を幸せにしてあげよう、極楽に行かせてあげようとされているんだから、自力で幸せになろう、極楽に行こうというこざかしい考えは捨てて、仏さまの大きな力に身を任せればいいんです。それには「南無阿弥陀仏」という言葉だけでOK。万巻のお経を凝縮すると結局この「南無阿弥陀仏」の6文字になるんですから。ちなみに、阿弥陀仏はお釈迦様の大先生。大宇宙の一番の先生ですよ、と大衆にわかりやすく伝えたことだと思う。
本書は比較的わかりやすい書籍だと思うが、理解できない部分も多く、おかげで真宗を考える良いきっかけに。上記は本書のまとめではない。正確ではないかもしれないが、真宗を短く言うとこういうことかなと自分用にメモ。感謝。南無。