今日11月5日は、「津波防災の日」であり、国連が定めた「世界津波の日」でもある。
ご存知の方も多いと思うが、この日付には由来がある。1854年、旧暦の11月5日、安政南海地震が紀伊半島から四国の沿岸を襲った。紀州の広村、いまの和歌山県広川町にも、夕暮れの後、大きな津波が押し寄せた。
その夜、村の有力者だった濱口梧陵は、闇の中を逃げまどう村人たちのために、刈り取った稲の束、稲むらに次々と火を放った。燃え上がる炎を目印に、人々は高台へと逃げ延びた。
稲むらは、その年の収穫そのものである。それを惜しげもなく燃やして、命の道しるべにしたのだった。
この話は、のちに小泉八雲によって物語に書かれ、さらに日本の国語の教科書に「稲むらの火」として載った。
教科書の物語では、地震の後に海が引いていくのを見た老人が、津波の襲来を悟り、祭りの準備をしていた村人たちを丘の上に呼び寄せるため、自分の稲むらに火をつける。火事だと思って駆け上がってきた村人たちの眼下で、村は波に呑まれていく。
史実と物語は、実は少し違うらしい。だが、物語のほうが、人の心に長く残った。教科書でこの話を読んだ世代は多い。私の世代でも、題名に覚えのある人は少なくないだろう。
知らせるということ
今年は、災害の多い年だった。7月には熊本が再び大きく揺れ、8月には千葉が記録的な豪雨に襲われた。そのたびに、避難の呼びかけが届いたかどうか、届いた情報で人が動けたかどうか、が問われた。
濱口梧陵の火は、究極の情報伝達だったと思う。言葉の届かない闇の中で、誰の目にも見える一点の光を掲げた。逃げよ、とも、どこへ、とも言わずに、炎がすべてを伝えた。
情報というものは、正しいだけでは人を動かさない。届き、見え、行動に結びついて、初めて意味を持つ。
今の私たちの手元には、緊急速報もあれば、ハザードマップもある。だが、千葉の豪雨では、浸水想定区域の外で被災した人が少なくなかった。情報があることと、それで人が動けることは、別の話である。
火を灯した後で
濱口梧陵の話には、続きがある。私はむしろ、こちらに心を惹かれる。
津波の後、梧陵は私財を投じて、村に大きな堤防を築いた。数年をかけた工事だった。津波で田畑や仕事を失った村人を工事に雇い、暮らしを支えながら、次の津波に備えたのである。
梧陵は醤油醸造を営む商家の当主でもあった。今で言えば、一人の経営者が、災害の後に自分の資金で防潮堤を築き、同時に地元の雇用を生み出したことになる。
それからおよそ90年後、1946年の昭和南海地震で、再び津波が村を襲った。梧陵の堤防は、村の中心部を守ったと伝えられている。
稲むらの火は、一夜の機転だった。だが堤防は、90年先を見据えた備えだった。一夜の炎で命を救い、生涯の財で次の世代を救った。
英雄の物語として語られるのは前者だが、本当に学ぶべきは後者かもしれない。
稲の束に火を放った夜から、172年が経つ。あらためて、災害は忘れた頃にやってくる。




















