Lone person walking through a paper-strewn historic square with a church and clock tower

「保守主義の父」が、今のフランスを見たら何と言うだろうか

1790年、革命の熱狂のさなかに、保守主義の父と呼ばれるエドマンド・バーク(英国)は不朽の名著となった『フランス革命の省察』を書いて、人間の理性だけで社会を一から作り直せると信じた革命家たちに、真っ向から異を唱えた。

社会とは、先人が長い時間をかけて積み上げてきた知恵の器であり、一世代の頭で設計し直せるほど単純なものではない、と。そして、この革命はやがて混乱の果てに軍人の独裁に行き着くだろうと予言した。

ナポレオンが現れる十年近く前のこと。予言は的中した。

そのバークが、市庁舎に火が放たれ、商店が略奪される光景を見れば、眉をひそめるに違いない。極左とも言われる「不服従のフランス」党が便乗しているとの報道もあり、怒りに任せて秩序を壊すことほど、彼の嫌ったものはない。

だが、きっと話はそこで終わらない。

バークは、ただ古いものを守れと言ったわけではなかった。手入れを怠れば、家はいずれ崩れる。小さな改修を拒み続ける者こそが、やがて大きな破壊を招く。保守とは、変化を拒むことではなく、壊さずに直し続けることだ、と。

しかも当時彼は、英国政府に抗議するアメリカ植民地の側に立った人でもある。民衆の不満そのものを、軽んじる人ではなかった。

今回の抗議は、先生の来ない教室、傷んだ校舎から始まった。バークは社会を、生きている者と、すでに死んだ者と、これから生まれてくる者との間の契約だと考えていた。その契約を次の世代へ手渡す場所が、学校である。そこが荒れるに任されているのなら、契約を先に破ったのは誰なのか。

おそらくバークは、両方を叱るに違いない。火を放つ若者には、壊したものは二度と元に戻らないと。そして、教室の空席と傷んだ校舎を放置してきた為政者には、直すべきときに直さなかったことが、この火を呼んだのだと。

保守主義の父と呼ばれる人は、今のフランスは、壊す者も直さない者もいずれもダメ、と言っているに違いない。

Crowd gathered outside a school behind barriers facing uniformed officers

黙っていろと言われても、黙らない、それがフランス

沈みかけた船から乗客を海に飛び込ませる、という古い民族ジョークがある。アメリカ人には「飛び込めば英雄になれます」、イギリス人には「紳士なら飛び込みます」、ドイツ人には「飛び込むのがルールです」。そしてフランス人には、「絶対に飛び込まないでください」、と。

言われたことの逆をやる国民、というわけである。そのフランスで、いま人々が街を埋めている。報道によれば、デモは55万人規模に膨らみ、地方の市庁舎にまで火が放たれた。

発端は身近な不満だった。九月の新学期、パリ郊外の高校で「何ヶ月も数学や主要科目の先生が来ない」「自習ばかりになる」「1クラス35人に対して椅子が25脚しかなく立ちっぱなしで授業を受ける」「エアコンや暖房がないプレハブ校舎」「トイレがずっと壊れたまま、紙もない」といった、予算削減による劣悪な教育環境に対し、高校生たちが学校を封鎖し、それが全国に広がった。

一方で、学校現場の荒れ、SNSを介した生徒からの暴力、教師へのリスペクト低下など、過酷な割に給料が見合わないと教職を敬遠する人や中途離職する人が増加している。

そこへ、2018年に燃料税の値上げから始まった「黄色いベスト」運動が、物価高への怒りを掲げて合流して戻ってきた。教室の空席と、暮らしの苦しさ。二つの怒りが、街頭で合流したのである。

市庁舎が燃える光景に、フランス革命を思い浮かべる人もいるだろう。実際、1871年のパリ・コミューンでは、パリ市庁舎が炎に包まれた。権力の象徴に火を放つという行為は、この国の歴史に何度も現れる。

注目したいのは、火が付いた場所。抗議は、貧困層の多い郊外の学校から始まった。先生が来ないのは、たいてい恵まれない地区の学校だ。郊外には移民系の住民も多く、その怒りが重なっていないとは言い切れない。

地域教育の荒廃も、物価高の重さも、持たざる者ほど強く感じる。これは結局、持てる者への、持たざる者の怒りなのだろう。

暴力は肯定できない。手首を失った少年もいれば、負傷した警官もいる。それでも、十代が教室の惨状に声を上げ、大人がそれに並んで歩く光景には、過激ではあるものの、この国独特の民主主義の表現を感じる。

飛び込むなと言われても、飛び込む。黙っていろと言われても、黙らない。それがフランスなのだろう。

Snow-covered rocky coastline with waves, driftwood, hills, and distant towers

情報を集めることを、スパイと呼ぶか、取材と呼ぶか

ロシア連邦保安局・FSBが、北海道新聞の記者をスパイ容疑で拘束した。ユジノサハリンスク支局の記者で、出国予定日の前日、サハリンで拘束され、モスクワへ移送された。裁判所は二カ月の勾留を認めている。

FSBの主張によれば、記者は日本の情報機関の指示で、ウクライナの戦争に動員された千島列島や北方領土の住民の数などを調べていたという。だが、拘束を裏付ける証拠は全く示されていない。記者は記者ビザを持ち、取材をしていた。国営テレビは、覆面姿の男たちに手錠をかけられる映像まで流した。

そもそも日本の報道機関が、政府の情報機関の指示を受けて動くというのは考えにくい。権力から距離を置くのが、報道の存在理由そのものだからである。まして北海道新聞は、朝日新聞や毎日新聞、東京新聞などと並んで、政権に批判的な論調と見られることが多い新聞である。その記者が政府の手先として働いていた、という筋書きは、日本の新聞事情を少しでも知る者には、かなり無理があるように映る。

おそらく、戦争が地域社会に何をもたらしているかを伝えたい、というまさに地元紙の取材そのものだったのかもしれない。

FSBと聞いて、秘密警察を思い浮かべる人がいるかもしれない。その連想は正しい。FSBは、ソ連崩壊とともに解体されたKGBの、国内部門を受け継いだ組織である。プーチン大統領もKGBの出身で、FSBの長官を務めた。看板は替わったが、体質まで替わったと考える理由は乏しい。

外国人記者のスパイ容疑での拘束には前例があって、2023年、米ウォール・ストリート・ジャーナルの記者がやはりFSBに拘束され、米ロの囚人交換で解放された。拘束された人間が、外交の取引材料になる。そういう使われ方を、私たちはすでに見ている。

八月にはプーチン大統領が択捉島を訪れた。そういう中で、北方領土に最も近い現場で取材を続けてきた地元紙の記者が捕らえられた。中央政府の指示かもしれないし、中央政府に気に入られようと現地側が動いたのかもしれない。

情報を集めることを、スパイと呼ぶか、取材と呼ぶか。その線引きを、相手国に証拠も示さず一方的に決めるのはおかしい。現地の声を拾い、伝えることが罪になるなら、私たちが知ることのできることはどんどん少なくなる。

ロシアが解放の見返りに何を求めてくるのかは分からない。制裁緩和だろうか。囚人交換ではないことは確か。

日本にはスパイ行為そのものを罰する法律がない。外国の工作には無防備なまま、自国の記者だけが相手国の都合で捕らえられる。この非対称を放置してよいとは思わない。

とにかく記者の一日も早い解放を願う。

Rainy nighttime city intersection viewed through a window

韓国の大統領支持率は、上がるのも速いが、下がるのも速い

韓国の李在明大統領の支持率が、就任以来の最低水準に沈んでいる。

一年前は六割を超える支持を集めていた。それが崩れ始めたのは、今年六月の統一地方選から。ソウルの一部の投票所で投票用紙が足りなくなり、投票が中断した。選管の委員長は辞任に追い込まれた。その後、支持率はついに三割台へ。

支持率を下げる理由の筆頭は、不動産。これは、韓国政治の持病みたいなもので、前々任の文政権も、住宅価格の高騰で支持を削られた。政権が左右どちらであっても、ソウルの不動産は大統領の通信簿になる。住まいの値段は、あらゆる人の暮らしに直結し、しかも政府の思いどおりには動かない。

もう一つ、この国の大統領支持率は、上がるのも速いが、下がるのも速い。熱狂と幻滅の周期が、日本よりずっと短い。街頭に人が集まるのも早く、散るのも早い。それは政治への関心の高さでもあり、同時に、誰が大統領になっても持ちこたえにくい構造でもあるのだろう。

Traditional Japanese study with classical book

「勉強しろ」という父の説教が「読書の秋」の出典

月並みだが、秋と言えば「読書の秋」。知らなかったが、昔の中国の文人が息子に「勉強しろ」と説教する詩がこの出典となっているらしい。

興味が湧いたので調べてみた。参考まで全文と意訳は以下の通り。説教する人は唐の韓愈で、古文(散文)の隆盛を築いた「唐宋八大家」の筆頭。符は息子の幼名、城南は長安の南にあった韓家の別荘を指す。


「符読書城南」 

木之就規矩 在梓匠輪輿
木がきちんとした形になるのは、大工や車職人の腕による。

人之能為人 由腹有詩書
人が人らしくなれるのは、頭の中に書物の教えが入っているからだ。

詩書勤乃有 不勤腹空虚
書物の教えは、励めば身につく。励まなければ、頭は空っぽのままだ。

欲知学之力 賢愚同一初
学ぶことの力を知りたければ、こう考えるといい。賢い者も愚かな者も、始まりは同じ。

由其不能学 所入遂異閭
ただ、学べなかったばかりに、やがて進む進路が分かれてしまう。

両家各生子 提孩巧相如
二つの家にそれぞれ子が生まれたとする。抱かれている赤ん坊のうちは、賢さも同じくらい。

少長聚嬉戯 不殊同隊魚
少し大きくなって一緒に遊ぶ頃は、群れて泳ぐ魚のように見分けがつかない。

年至十二三 頭角稍相疎
ところが十二、三歳になると、少しずつ差がついてくる。

二十漸乖張 清溝映汚渠
二十歳になれば、いよいよ進路が分かれ、澄んだ水路と汚れた排水溝ほどの違いになる。

三十骨骼成 乃一龍一豬
三十歳で骨格が固まる頃には、一人は龍、一人は豚になっている。

飛黄騰踏去 不能顧蟾蜍
龍のほうは天馬のように駆け上がり、地面のひき蛙など振り返りもしない。

一為馬前卒 鞭背生虫蛆
一人は馬の前を走らされる下僕となり、鞭打たれた背中には蛆虫がわく。

一為公与相 潭潭府中居
もう一人は大臣となり、奥深く広い屋敷に住んでいる。

問之何因爾 学与不学歟
なぜそんな差がついたのかと問えば、学んだか、学ばなかったか、それだけだ。

金璧雖重宝 費用難貯儲
金や宝玉は貴い宝だが、使えばなくなるし、蓄えておくのは難しい。

学問蔵之身 身在則有余
しかし、学問は自分の体にしまっておけるもので、なくならない。生きている限り、いくら使っても余りある。

君子与小人 不繋父母且
立派な人になるか、つまらない人になるかは、親で決まるものではない。

不見公与相 起身自犁鋤
見てごらん。大臣の中には、鋤や鍬を握る農民の身から出世した者がいるではないか。

不見三公後 寒饑出無驢
見てごらん。最高位の大臣の子孫でも、寒さと飢えに苦しみ、外出するのにロバ一頭すら持たない者がいるではないか。

文章豈不貴 経訓乃菑畬
書いている文章に価値がないわけではない。けれども、古典の教えという土台がなければ、文章は育たない。

潢潦無根源 朝満夕已除
雨でできた水たまりには、湧き出る源がないから、朝には水がたまっていても、夕方にはもう枯れている。

人不通古今 馬牛而襟裾
昔と今のことを知らない人間は、着物を着た馬や牛にすぎない。

行身陥不義 況望多名誉
昔と今を知らないままでは、身の行いは道に外れていくばかりで、まして名声など望めるはずがない。

時秋積雨霽 新涼入郊墟
いまは秋。降り続いた雨がようやく上がり、新しい涼しさが郊外の村に入ってきた。

灯火稍可親 簡編可巻舒
灯火のそばにも、ようやくじっくり座れるようになった。書物を開いたり巻いたりできる季節が来たのだ。

豈不旦夕念 為爾惜居諸
朝に夕に、お前のことを気にかけずにいられようか。お前の若い日々が、むだに過ぎていくのが惜しくてならない。

恩義有相奪 作詩勧躊躇
親としての情と、厳しく導く務めとは、ときに互いを押しのけ合う。だから迷いながらも、この詩を書いてお前に勉強を勧めるのだ。

(以上、私訳)


たしかに世の親は皆そう言いたくなる(笑)

なお、このおかげかどうかわからないが、この息子は、のちに科挙に合格した。824年のことで、父が世を去ったのも、同じ年だという。

父の旅立ちに間に合ったのだろうか。

別の人生を追体験できる感動のサイト

友人から教えてもらった「80億分の1」というサイト。クリックすれば、すぐに別の人生を開始できる。

ただし、どの国に、どんな家に、男か女か、選ぶことはできない。いまこの瞬間にも、世界では一秒に四人ほどの赤ん坊が生まれているが、そのうちの一人になって、一生をたどる。国連や世界銀行の統計をもとに、その国の平均的な人生が、早送りで流れていく。

私は、コンゴ民主共和国に女の子として生まれた。

学校に通い、結婚し、子どもを産み、やがてたくさんの孫に囲まれた。途中、夫の名前が出てきて驚いた。知り合いと同じ名前だった(笑) 思わず笑ってしまったが、そのせいで、画面の中の夫が急に身近な人に思えてきた。

そして五十七歳で、結核で亡くなった。

最後の場面で、不覚にも泣けた。数分前まで見知らぬ国の見知らぬ女性だった人が、気づけば自分の一生になっていた。孫たちの顔を思い浮かべながら、まだ五十七だったのに、と思った。

日本に生まれた私にとって、結核は治せる病。だが世界には、それがいまも人生の終わり方として、統計の上に普通に現れる。知識としては知っていた。だが、一人の人生として通過すると、重みが違う。

政治哲学者のジョン・ロールズは、自分がどの立場に生まれるか分からない「無知のヴェール」をかぶった状態で、社会のルールを考えよ、と説いた。このサイトは、そのヴェールを、ほんの数分だけ実際にかぶらせてくれる。

もちろん、これは統計から組み立てた架空の人生であって、本物の誰かではない。ゲームで泣いたくらいで、世界を分かった気になってはいけないが、それでも、地図や数字では決して届かない場所に、一人の人生の形で連れていってくれる。世界の暮らしや文化を理解する入口として、これほど優れたものはそう多くないと思う。

私たちが日本に生まれたのは、まぐれ。来世はどこに生まれるだろう。

80億分の1 https://1in8b.life/ja

Festival participants pull a decorated wooden float through a rainy Japanese street

それでも、だんじりは曳かれるはず

十月十日、泉州の二つの町で、だんじりが相次いで横転した。二人の男性が亡くなり、十七人が傷を負った。亡くなったお二人に哀悼の意を表したい。

こうした事故のたびに、同じ声が上がる。人が死ぬような祭りを、なぜ続けるのか。

もっともな問いである。軽く退けてよいものではない。

だが、だんじりは見世物ではない。一年かけて準備をし、子どもは綱を曳き、若者は梃子を握り、年寄りは采配を振る。町会ごとの縦の繋がりが、この数日のために一年じゅう保たれている。祭りが消えれば、消えるのは数日の行事ではなく、その一年の営みであり、世代を超えて人が顔を合わせる理由そのものだ。

亡くなった方々も、その輪の中にいた人たちである。好きで、誇りを持って、あの場所に乗っていたのだろう。祭りをやめることが、その人たちへの弔いになるとは、私には思えない。

ただし、続けることは、何も変えないことではない。

今回の二件は、いずれも交差点で右折した際に起き、亡くなったのはどちらも側面に乗る重り役だった。教訓は具体的。どこで、誰が、どう危ないのか。それが分かっているなら、手を打てるはず。

以前、祇園祭について書いたとき、長く続く祭りは器を保ったまま中身を入れ替えてきた、と述べた。だんじりも同じだと思う。勢いと誇りという器は守る。そのうえで、乗り方、曲がり方、人の配置は、時代に合わせて少しずつ変えていけばいい。

祭りを守ることと、人の命を守ることは、どちらかを選ぶものではない。二つを同時に背負うことが、これから祭りを曳く人たちの務めなのだと思う。

来年も、だんじりは曳かれるはず。弔いのためにも。その綱を曳く人と一緒に、今年亡くなられたお二人もきっと曳いているはず。

「お客様は神様です」の本当の意味

10月から、企業にカスタマーハラスメント対策が義務づけられた。客からの暴言や不当な要求から従業員を守る、法律上の責任が生じたことになる。

この種の話題になると、必ず引かれる一句がある。そう、「お客様は神様です」。

歌手の三波春夫さんが口にしていた言葉だ。若い人は知らないか。だが本人の説明によれば、意味はまるで違う。

歌う者は、澄みきった心でなければ良い歌を届けられない。神前で祈るときに同じように、ステージからみた観客の皆さまを神さまだと思って、自分の芸を捧げる。そういう、芸人の心構えを語った言葉だった。

客が偉い、という話ではなく、捧げる側の心構えの話だった。それがなぜか、客が店員に向かって、「俺は客だぞ、神様だぞ」という話になった。

なぜ逆に広まったのか。一説には、当時の漫才師(主にレッツゴー三匹)が物真似でこの台詞を使い、客いじりの決め文句として流行したことが大きいらしい。舞台の冗談が、いつのまにか客側の権利主張の根拠として独り歩きしたわけだ。

言葉は、作った人の手を離れると、離れた先で、しばしば正反対の意味を帯びることがある。半世紀にわたって、この国の多くの店員たちは、ありもしない神様に頭を下げてきた。

誤解が解けるのに、50年かかった。

なんと、翻訳を逆行させたマクドナルド

10月1日、日本マクドナルドのマスコットの名前が「ドナルド」から「ロナルド」に変わった。(画像は同社公式Xより)

英語圏ではもともと「ロナルド」であり、なぜか日本だけが55年にわたって別の名で呼んでいた。

元々「ドナルド」にした理由は、マクドナルドの「ド」と頭が揃うので、そのほうが日本人に呼びやすかったからだそうだ。

耳に収まりがいいということは、要するに、日本語の口に合わせてあえて作り変えたわけである。

実はこれは明治以来の翻訳の伝統的作法だ。machine はミシンになり、lemonade はラムネになり、sabão はシャボンになった。原語の音を、日本人が言いやすい形に丸めてしまう。意味までずれた場合もある。ミシンは英語では単に機械を指す言葉だが、日本語では縫うための機械だけを指す別の言葉として定着した。

要は、そうしなければ入ってこなかったのである。外来のものは、こちらの口に合う形に削られて、ようやく生活の中に居場所を得る。

翻訳(特にローカリゼーショ)とは、本来そういう荒っぽい仕事なのだ。

しかし昨日起きたのは、その逆。作り変えたものを、元の形に戻したというわけで・・・翻訳・ローカリゼーション事業に永らく関与してきた者としては、ある意味、画期的な出来事だと思う。

台風に名前をつける文化

日本では、台風を番号で呼ぶ。何号、と。だが国際的には、アジアの台風に名前がついているのをご存知だろうか。

2000年から、日本を含む14の国と地域が10ずつ名前を出し合い、140の名を順番に使い回している。カンボジアやタイやベトナムが持ち寄った言葉が並ぶ中で、日本が提供しているのは星座の名である。

コイヌ、トモ、ヘビ、カジキ、コト、クジラ、コグマ、トケイ、トカゲ、ヤマネコ・・・なんだかかわいいものも多い気がする(笑)

誰が考えたのか知らないが、これはなかなかのアイデアだと思う。地上で動き回る凶暴なものに、天上の静かでかわいい星座の名前をつける。慰めか、それとも、どうかかわいいものであってくれ、という祈りのようなものだろうか(笑)

ちなみに、19世紀末のオーストラリアに、クレメント・ラッグという気象学者がいた。彼は嵐に、自分の気に入らない政治家の名前をつけたという。あの男が今、海の上で暴れている、という具合である。

面白いのは、大きな被害を出した台風は、その名を永久に引退させる決まりがあることだ。二度と使われない。

これは、忌み名に近い感覚だろう。もう呼ばないでおこうということ。

名前を与えて、名前を奪う。思えば、人間が自然の脅威に対してできることはその程度でしかない。

London financial district skyline with illuminated stock market graphics at dusk

株価の落下から逃げられなかったニュートン

日経平均が六万六千円台にある。

バブル期の最高値は、三万八千九百十五円であった。1989年の大納会。あの数字を、私の世代は長いあいだ「天井」として記憶してきた。二度と届かない高さ、という意味である。いま30歳代の人にとっては、ただの歴史上の数字だろう。遠い昔の、ずいぶん低い場所についた記録にすぎない。

数字の桁は変わっていくが、それを見る人の心のほうは、あまり変わっていない。

1720年、ロンドンで南海会社の株が暴騰した。植民地貿易の独占権を背景に、誰も実態を確かめないまま値が跳ね上がり、そして崩れた。この騒ぎで損をした一人が、アイザック・ニュートンである。天体の運行は計算できるが、人間の狂気は計算できない。彼がそう嘆いたと伝えられている。万有引力を発見した人物が、株価の落下からは逃れられなかった(笑)

もう少し遡れば、17世紀のオランダでは、球根一つが家一軒と交換された。チューリップである。後年の研究では、その被害はかつて語られたほど深刻ではなかったとも言われるが、球根に家の値がついたこと自体は動かない。

こうした話を、人は笑う。球根に家一軒とは愚かだ、と。だが笑っている当人が、翌日には数字の上下に一喜一憂している。何を隠そう、私だ(笑)

面白いのは、上がっても下がっても人が落ち着かないことである。上がれば乗り遅れたかと焦り、下がれば失ったと嘆く。どちらにせよ、心は数字に握られている。

桁が一つ増えたところで、そこは変わらないのだろう。おそらく永遠に。

上記の南海泡沫事件から三百年。人間の側は、たいして進歩していない、とあらためて思う。

Moonlit Japanese garden with pond, bridge, lantern, stone path, and bench

月を待つ文化:昔の日本人の風雅さが面白い

旅は着く前がいちばん楽しく、贈り物は開ける前がいちばんふくらむ。月もおそらく、出てくる前がいい。

今年の中秋の名月は、九月二十五日。まだ十日先。今から書くのは気が早いようだが、この行事に限っては、待つことがテーマになっていると思われる。昔の日本人は、月に細かく名前をつけてきた。ちょっと整理がてら調べてみた。

新月から満ちていく途中の二日月、三日月、上弦(じょうげん)の月、十三夜、小望月(こもちづき)。そして満月を過ぎると、十六夜(いざよい)、立待月(たちまちづき)、居待月(いまちづき)、寝待月(ねまちづき)、更待月(ふけまちづき)、下弦(かげん)の月、晦(つごもり)と続く。

この後半に入ってからの名前が面白い、というか、あらためて、その風雅さに感心する。

月の出は、日ごとに少しずつ遅くなる。満月の翌日はためらう(いざよう)ように出てくるから十六夜。その次は立って待つうちに出るから立待月。さらに次は、立って待つと疲れるから座って待つ居待月。その次は横になって待つ寝待月。最後は夜も更けてから出る更待月。

つまり、これは、立って、座って、寝転んで・・・月が出るのを待つ人の姿勢が、そのまま暦になっているわけだ(笑)

月に細かく名付ける文化は、ハワイやポリネシアにもあるそうだが、世界では多くない。昔の日本人は待つことに退屈せず、待つ時間そのものを味わい、あまつさえ待ち方に名前をつけて楽しんだことが面白い。

いつのまにか、現代の私たちは待てなくなっている。関西でいうところの「いらち」。電車が一分遅れれば案内が流れるし、私自身も、Youtubeは1.5倍速で観たり、届かない返信に苛立ったりしている(苦笑)

だが、それで失われたのはたぶん、待つ間のワクワクする時間、期待がふくらんでいく時間だろう。手に入れる前の、プレゼントを開ける前の、あの何とも言えない時間。

そんなことを考えながら、中秋の名月を楽しみにしておくことにしたい。そのころには、夜風も涼しくなっているだろう。

Tea tray and cushion on a wooden veranda overlooking an autumn Japanese garden

日本人だけ?に聴こえる虫の声

日本人は昔から、虫の音を「聴いて」きた。万葉集にも古今集にも虫の歌があり、平安の貴族は虫を籠に飼って音を楽しんだ。江戸には虫売りという商売があったという。鈴虫、松虫、くつわ虫。

私たちは虫の声に名前をつけ、聞き分け、季節の便りとして受け取ってきた。

ところが、世界的に見ると、相当めずらしいことらしい。

西洋では、虫の音は基本的に雑音として扱われる。詩に詠まれることも少ない。角田忠信という医学者が、日本人は虫の音を言語をつかさどる左脳で処理し、西洋人は音楽や雑音を扱う右脳で処理する、という説を唱えたことがある。ただ、この研究には批判も多く、定説とは言いがたいらしい。

いずれにせよ、同じ音が、ある文化では意味を持ち、別の文化では背景音に沈むという事実そのものは、否定しようがない。つまり、耳は同じでも、聞こえているものが違うというわけだ。

これは音に限った話ではないだろう。何かを聞き分けられるようになるには、まずそれに名前がなければならない。鈴虫と松虫を区別する語彙を持つ文化では、人はその違いを聞く。語彙がなければ、音はただ通り過ぎていく。

私たちが世界から受け取っているものの量は、実のところ、私たちが持っている言葉の量に制限されているのかもしれない。

もっとも、私が幼い頃、福井の実家では、虫の声を聴きながら眠りにつくことが秋の日常だった。しかし、東京の夜に虫の声を聴くのはかなり難しい。草むらが減り、空調の音がそれを覆う。窓を開けて眠る夜も少ない。

この秋、虫の声を聴くにはベランダに飼うしかないか。

Empty classroom with welcome-back September term message and autumn trees outside

九月入学:日本の教育における議論

九月。日本の子どもたちにとっては二学期の始まりだが、世界の多くの国では新しい学年の始まりだ。欧米も中国も、九月に学校の一年が動き出す。四月始まりは、世界的にはかなりの少数派。

ときどき、数年に一度、九月入学に変えては、という議論が持ち上がる。留学生を受け入れやすくなる、国際的な人材の流動性が高まる。もっともな理屈である。そして毎回、立ち消えになる。

理由の一つは、桜だろう。

入学式に桜が咲いている。あの光景を手放すことに、この国の人々は理屈を超えた抵抗を感じる。校門の写真、はらはらと散る花びら、真新しいランドセル。私たちは四月という月に、始まりの感情そのものを結びつけてしまった。

ただ、この結びつきは、実はそれほど古いものではない。

明治の初め、日本の学校の多くは九月始まりだった。西洋の制度をそのまま輸入したからである。それが四月に変わったのは、明治の半ばに国の会計年度が四月からになり、学校もそれに合わせたためだと言われる。徴兵制度の都合という説もある。いずれにせよ、桜が理由ではなかった。

つまり、四月入学と桜が結びついたのは、事務の都合が先にあって、情緒が後から追いついたということ。役所が決めた区切りに、百五十年かけて、国民が意味を吹き込んだというわけだ。

そう考えると、多くの伝統は、始まりにおいては誰かの事情。それが繰り返されるうちに、いつしか感情やしがらみがまとわりつき、動かせなくなる。動かせなくなったものを、私たちは「伝統」と呼んでいる。

秋に始まるのも、悪くはないはず。実りの季節に学び始めるという発想も、それはそれで美しい。ただ、私たちはもう、四月に始まらない春を想像できなくなってしまっている。

消え去った九月九日の節句

九月九日は、重陽の節句。そう聞いて、ああそうかと思う人は少ないだろう。五節句の一つでありながら、この日だけが、すっかり忘れられてしまった。

人日(じんじつ)、上巳(じょうし/じょうみ)、端午、七夕、そして重陽(ちょうよう)。一月七日の七草粥、三月三日の雛祭り、五月五日の鯉のぼり、七月七日の笹飾り。四つまでは今も生きている。九月九日だけが消えた。

もとは中国から来た行事。奇数は陽の数とされ、最も大きい陽の数である九が重なる日だから重陽。菊の花を浮かべた酒を飲み、長寿を願った。平安の宮中では観菊の宴が催され、江戸期には庶民にも広まっていたという。

なぜ、これだけが消えたのか。

一つには、暦のずれだろう。旧暦の九月九日は、いまで言えば十月の半ば頃にあたる。菊が咲き、秋が深まる季節である。それを新暦にそのまま移したために、まだ残暑の厳しい時期、季節と行事が噛み合わなくなった。

もう一つ、日本では九という数字の分が悪い。「苦」に通じるといって、病院の部屋番号から外すところもある。

ところが中国語では、九は「久」と同じ音になる。長久であり、長寿である。重陽が長寿を願う日であるのは、まさにこの縁起の良さゆえであった。

同じ数字が、海を渡った途端に正反対の意味になる。この節句が根づかなかった一因を、語呂に求めるのはこじつけすぎだろうか。

だが、本当の理由は別のところにあると思う。

重陽の主役は、老人。長寿を祝い、これからの息災を願う日。ところが、節句に老いを寿ぐ(ことほぐ)という感覚が、いつからか薄れた。

敬老の日という祝日はある。だがあれは、戦後に兵庫の一つの村で始まった敬老会が全国に広がったもので、重陽とは関係がない。老人の知恵を村づくりに生かそうという、菊酒を酌み交わす類の風雅とは無縁の発想から生まれている。

順序で言えば、重陽が先に薄れ、その後に敬老の日ができた。だから敬老の日が重陽を追い出したわけではない。ただ、空いた席に別の誰かが座ってしまえば、もう元の主は戻れない。老いを祝う日が九月にもう一つあるのなら、わざわざ菊酒を用意する理由もない。重陽は、消されたというより、戻る場所を失ったのかもしれない。

面白いのは、本家の中国では、いまも九月九日が高齢者の日として生きていること。

高齢化が進む両国で、日本だけ老いを祝う節句が消えている。きっと「九」の評判が悪いので、敬老の日に譲ったのだと思うことにしよう。

祖父母や両親を思い出して、菊を一輪買ってこようと思う。

Quiet Japanese residential street with lanterns and skyscraper at dusk

三十年ぶりの金利変動、そして時間の意味

長期金利が三パーセントを超えた。三十年ぶりだという。

つまり、いま三十代の人は、金利のある世界を知らずに大人になったことになる。私が銀行員だった時代は、定期預金に預けると年7-8%ぐらい金利がついた。つまり1億円預金すると利子が年間7-8百万円になった。

金利とは、要するに時間の値段。いま百万円を受け取るのと、一年後に受け取るのとでは価値が違う。お金を貸す人が一年返済を待つことへの対価である。

面白いのは、この「待ち時間に値段をつける」という発想が、長く罪とされてきたこと。中世のヨーロッパでは利子を取ることが教会に禁じられていた。時間は神のものであり、万人に等しく与えられたものを切り売りするのは盗みに等しい、という理屈である。

だから金貸しは卑しい商売とされた。シェイクスピアがシャイロックを書いた背景には、この考えがある。

だが、金利のない世界は、貸す者のいない世界でもある。何の見返りもなく金を貸す者はいない。

そして時間が無価値な世界では、待っても得をしない。金利がゼロなら、いま使っても一年後に使っても同じである。逆に借りる側も、利息がつかないなら急いで返す必要がない。早く動く理由も、じっと待つ理由も、どちらもなくなってしまう。

この三十年、日本人がどこか焦らずに過ごしてきたことと、金利がなかったことは、案外つながっているのかもしれない。

金利が上がれば、預けている人には利息が入り、借りている人は返済が重くなる。住宅ローンや借金を抱える人には、間違いなく厳しい話である。それは分かっている。ただ、動くことにも待つことにも意味が戻ってきたということでもある。

悪い話ばかりではないと、そう考えることにしたい。

Aerial view of flooded rice paddies, waterways, villages, and wooded hills

車を捨てて、命を救え

千葉の豪雨から、一週間余りが過ぎた。

八月十三日の夕方から夜にかけて、線状降水帯が度々発生し、千葉県各地で二十四時間の雨量が観測史上最多を更新した。特別警報が出され、駅の周辺が冠水し、車ごと水に呑まれた方がいた。死者は十三人。浸水した住宅は約四千棟に及ぶ。

気象庁はこれを「令和八年八月千葉豪雨」と命名した。地域名を冠した命名は九年ぶりだという。

名を付けるのは、忘れないためである。


人類最古の文学と言われる『ギルガメシュ叙事詩』にも、洪水の話が出てくる。四千年ほど前の古代メソポタミアで粘土板に刻まれた物語である。

神々が人間を滅ぼすために大洪水を起こすことを決める。だが一柱の神が、ウトナピシュティムという男だけに密かに告げる。家を壊し、船を造れ。家財を捨て、命を救え、と。

男は船を造り、家族と、あらゆる生き物の種を乗せる。雨は六日六晩降り続き、七日目に止む。水が引いた後、彼はハトを放つ。戻ってくる。ツバメを放つ。これも戻る。最後にカラスを放つと、カラスは戻ってこない。どこかに陸が現れたのだ。

これを聞いて何か聞き覚えのある話だと思われたはず。旧約聖書のノアの箱舟は、この物語と細部までよく似ている。学術的には、このメソポタミアの伝承が旧約聖書の記述に影響を与えたと考えられているらしい。

つまり、人類が文字を持って最初に書き残した物語の一つが、洪水の記憶だったということになる。

なぜ、洪水だったのか。

チグリス・ユーフラテスの流域は、しばしば氾濫した。豊かな土をもたらす川が、同時にすべてを流し去る。その恐怖を、彼らは物語にして粘土板に刻んだ。おそらく実際に、村が一つ消えるような洪水があったのだろう。

生き延びた者が語り、次の世代が聞き、また語る。そうして四千年が経った。物語というのは、そういう記憶のしくみである。

私たちも同じことをしてきた。各地に残る津波の到達点を示す石碑、ここより下に家を建てるなという戒めの碑。日本各地の水にまつわる地名も、多くはそこが水と関わる土地であることを示している。

先人たちは、忘れっぽい子孫のために、あちこちに印を残していった。

ウトナピシュティムに告げられた言葉を、もう一度思い出したい。家を壊し、船を造れ。家財を捨て、命を救え。

四千年前の粘土板に刻まれた助言は、驚くほど単純。ものは諦めろ(今回なら車を諦めろ)、命だけを持って逃げろ。

この一点だけが、あらゆる文明が水から学び続けてきた、たった一つの教訓なのかもしれない。

亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

Hourglass beside an open manuscript on a wooden table

忙しい、と言わないために:セネカ『人生の短さについて』

盆休みが明けた。

休み明けの数日というのは、どうも調子が出ない。たまった連絡に目を通し、動き出した予定に追われているうちに、休んでいたことを忘れる。そして気づくと、また「忙しい」と口にしている。

セネカの『人生の短さについて』を思い出した。二千年近く前、ローマの哲学者が友人に宛てて書いた短い本である。

彼は言う。人生は短いのではない。我々がそれを短くしているのだ、と。

与えられた時間は、実は十分に長い。ただ、そのほとんどを、人は他人のために使い、無駄なことに費やし、そして最も皮肉なことに、いつか来る「そのうち」のために取っておく。今日を生きずに、いつか暇になったら本当にやりたいことをやろうと考える。そうして、その日が来る前に人生が終わる。

とりわけ痛烈なのは、忙しさに関する彼の観察である。

多忙な人ほど、実は何も成し遂げていない。自分の時間を他人に渡しておきながら、その状態を誇っている。財産を人に分け与えることには誰もが慎重なのに、時間だけは、求められるままに際限なく差し出してしまう。人が最も惜しむべきものを、人は最も気前よく手放す。

二千年前のローマにも、忙しさを自慢する人間が沢山いたということだろう。予定表を埋めることが充実の証だと信じ、空白を恐れ、次から次へと人と会い、そして何一つ自分のためには使っていない。まったく、今の私たちと変わらない。

皮肉なのは、彼自身が皇帝ネロの側近として、ローマで最も多忙な人間の一人だったことだ。おそらく、この本もまた、書いた本人が実践できていたかどうか…、いや、できていなかったからこそ、自分に向けた戒めとして書いたのだろう。言葉に切実さがある。

こうした実情に対し、彼が勧めているのは、意外に地味な処方である。それは、過去の賢者たちと交わること。

つまり、本を読むこと。彼らはいつでも会ってくれるし、こちらの時間を奪わない。そして自分自身のために時間を取ること。それだけである。

問い直すべきは、休むかどうかではなく、自分の時間を何に使っているか、ということ。

セネカはこうも言っている。人は、自分の土地に他人が入ってくれば怒るのに、自分の人生には誰でも入らせてしまう、と。

今後しばらく「忙しい」と言うのをやめてみようと思う。口にするたび、本当に忙しくなっていく気がするからだ。

京都の五山送り火と思い出

昨夜、京都では五山の送り火が焚かれた。

予備校時代の一年を、私は京都で過ごした。あの夏、住んでいた学生アパートの屋上から、送り火を見た。山肌に炎の文字が浮かび上がり、しばらく燃えて、少しずつ小さくなって消えた。それだけの、静かな時間だった。

当時の私は、あれが死者を送る火だということを、頭では知っていながら、たいして分かってはいなかったと思う。受験のことで頭がいっぱいの十八歳に、死者を送るという感覚は遠かった。

年を重ねると、送るべき人が増えてくる。

盆というのは、考えてみると不思議な習慣である。年に一度、死者が帰ってくる。迎え火を焚いて招き、数日ともに過ごし、送り火を焚いて送り出す。死者が「行き来する」という前提が、この国にはある。西洋の墓地を歩いたときに感じたのは、あちらの死者は「そこに眠っている」ということだった。訪ねていくものであって、帰ってくるものではない。無論、どちらが正しいという話ではない。

あの一年、私は自分の将来のことばかり考えていた。今は、送り火のほうを思い出す。

夏が、少し終わった。

Renaissance painting of Madonna and Child displayed in a glass case with visitors in the museum gallery

『モナ・リザ』は「おめでた」の絵だった

前回に続いて、山田五郎さん流の美術鑑賞を。五郎さんはモナリザを「『西洋絵画史上最高』とみんながハナから決めつけて観るのはどうなの?」と、お決まりのブームにチクリと釘を刺している。同感。

ダ・ヴィンチは「万能の天才」と言われるが、実はものすごく飽きっぽく、やり散らかして終わる「企画倒れ」が多い人だった。飛行機や戦車のアイデアなど、たくさんのデッサン(設計図)は残したものの、そのほとんどは頭の中だけで終わり、実際に完成させた絵画は一生の間にたった15点ほどしかないと。なるほど。

昔、ルーブルで観たが、『モナ・リザ』って、実はタテ77cm×ヨコ53cmという、とても小さな絵。

五郎さんはそのダ・ヴィンチの「技術」をやはり大絶賛。モナ・リザが笑っているようにも、そうでないようにも見える「謎の微笑」。これは、ダ・ヴィンチが完成させた「スフマート(ぼかし技法)」というすごい職人技のおかげ。普通の絵のように「輪郭線」をハッキリ描くのではなく、薄い絵の具を何十回も塗り重ねて、まるで煙のように境目をあいまいにぼかしていく。これによって、人間の目の錯覚が引き起こされ、観る人のその時の気分によって表情が違って見える不思議な絵になった。

モナ・リザが着ている地味な黒い服は、昔は「お葬式の喪服」だと言われていたが、最新の科学調査で、黒い服の上に「妊婦や出産直後の女性が着る、薄いガーゼの服」が描かれていることが分かった。

つまり、これは新しい命の誕生をお祝いして描かれた、とてもハッピーで温かい絵だったのである。ご存知でした?