August 2024 calendar with handwritten notes and circled dates for events

日本の八月: 歴史を刻む三つの日付

八月に入ると、日本人には三つの日付が近づいてくる。六日、九日、そして十五日。

不思議なのは、この三日が今も日付のみで記憶されていること。多くの歴史的事件は、やがて年号だけが残り、日付は薄れていく。関ヶ原が九月十五日だったと即答できる人は少ない。

だがこの三日は違う。八月六日と言われて、何の日か分からない日本人はまだ少ないだろう。

日付が残るのは、その日が毎年めぐってくるから。年に一度、同じ暑さと同じ蝉の声の中で、日本人はその日を通過する。

一方で、その日を知る人は、年々少なくなっていく。体験は必ず途絶えるから。

今年もまた、あの三日が来る。空を見上げて思いを馳せる時間を、少しだけ取りたい。

復旧を願うばかり:水のありがたみ

熊本で、老人ホームが断水のために給食を作れず、弁当でしのいでいると報じられていた。地震から一週間が経とうとしている。

私に断水の記憶はほとんどない。あるとすれば、冬の朝に水道管が凍って水が出なくなった、その程度のこと。蛇口をひねっても何も出てこない。しばらくすると親が湯をかけたか、日が高くなったかで、また出るようになる。半日にも満たない不便。それを断水の記憶と呼ぶのは、被災地の方々に申し訳ない気がする。

つまり私は、水に本当に困ったことがない。おそらく大多数の日本人がそうだろう。

日本語には「湯水のごとく使う」という言い方がある。惜しげもなく浪費するという意味だ。この比喩が成り立つのは、湯と水がふんだんにある国だったからにほかならない。世界には、この言葉が意味をなさない土地がいくらでもある。

蛇口をひねれば水が出る。この一事のために、実はどれほどの技術と労力と歳月が積み上げられてきたか。当たり前になったものほど、その内訳とありがたみは見えなくなる、と改めて思う。

猛暑・酷暑の中、水のない日を迎えている方々のことを思う。一日も早い復旧を願うばかりである。

泥かぶらの三つめの約束。「何か私にできることはありませんか」

書棚の一角に、時々引っ張り出しては読み返す絵本がある。『泥かぶら』である。

子ども向けの本を読み返すのは気恥ずかしい。ただこの一冊は、読むたびに刺さる場所が変わる。変わるのは、たぶんこちらのほうだろう。

物語はこうだ。

醜い顔のために泥かぶらと呼ばれ、石を投げられて育った少女がいる。誰からも疎まれ、自分でも自分を憎んでいた彼女の前に、ある日、老人が現れる。美しくなりたいと願う少女に、老人は三つのことを守れば必ず美しくなれると告げる。

一つ、自分をみじめだと思わないこと。 二つ、いつも笑顔でいること。 三つ、人のお手伝いをすること。

呪文でも薬でもない。少女は半信半疑のまま、とくに三つめを愚直に続ける。歳月が過ぎ、いつしか村の人々の目に、彼女は美しく映るようになっていく。

近ごろ気になるのは、この三つが同列ではないことである。

はじめの二つは、自分の内側だけで完結する。三つめだけは相手がいる。誰かのところへ出向き、声をかけ、手を動かさなければ一歩も進まない。そして三つめが、前の二つを連れてくるのではないか。

大人の日常でこれに当たるのは、たぶん「何か私にできることはありませんか」という一言である。

この問いを向けられて、人ははじめて自分が本当に困っていることを口にする。

この問いが習慣になると、目の前の人を「自分に何をしてくれる人か」ではなく「自分が何をできる相手か」として見るようになる。受け取る側から差し出す側へ、世界の見え方がひっくり返る。

歳を重ねるほど、人は「何かできることはありませんか」と問われる側になっていく。問う側でい続けるには、それなりの意識が要るらしい。書棚からこの絵本を引っ張り出すのは、たぶんその確認のためなのかもしれない。

蝉時雨:夏は地上の音と地中の静けさとでできている

蝉が一斉に鳴き始めた。蝉時雨が降るような、というのは言い得て妙で、あの声は一匹一匹の鳴き声というより、夏という季節そのものが立てている音のようにも聞こえる。

蝉については、誰もが子どもの頃に一度は聞かされる話がある。土の中で七年を過ごし、地上ではわずか七日で死ぬ、というあれである。

実を言えばこれは俗説らしい。日本の蝉の多くは幼虫期が二年から五年ほどで、成虫も条件がよければ二週間から一月ほどは生きるらしい。

だが私は、この俗説を訂正して回る気にはなれない。事実として不正確な話が何十年も語り継がれてきたのは、すなわち長い雌伏と短い地上での叫びに、人が自分の一生を映してきたからである。

人は蝉を語りながら、いつも人間の話をしている。

俗説を超える事実もある。北米には、十三年あるいは十七年きっかりの周期で発生する蝉がいる。周期ゼミと呼ばれる彼らは、その年数を一日たがえず土中で数え、ある初夏、数十億という単位で一斉に地上へ噴き出す。十三も十七も素数であることについては、周期の異なる天敵や近縁種と発生が重なりにくくするためではないか、とする説がある。

仮説の域を出ないというが、もし本当なら、蝉は地中の暗闇で素数を数えていることになる。十七年の沈黙が、生き延びるための精密な算術であったとは。自然の設計の深さに言葉が出ない。

蝉の声といえば、芭蕉。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

元禄二年(1689年)、出羽の山寺、立石寺での句とされる。あらためて不思議な句だと思う。蝉が鳴いているのに閑か。声が岩にしみ入っていくとき、音と静寂は両立する。思考と時間が止まるような底知れない沈黙が訪れる。

芭蕉にはもう一句、「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声」がある。数日後の死など知らぬげに鳴き続ける声を、憐れむのでも羨むのでもなく、ただ見つめている。この距離の取り方がなんとも良い。

現代は、沈黙に価値を認めない時代。発信し続けること、常に音を立てていることが存在の証しとされ、地中の十七年は無駄な時間としか勘定されない。

だが蝉を見ていて思うのは、あの長い地中の歳月は、準備期間なのではなく、それ自体が生の大部分だということだ。鳴いている数週間のほうが、むしろ例外。蝉時雨を浴びながら、あの何千匹何万匹の声の足元に、まだ順番を待つ何年分もの沈黙が埋まっていることを思う。

夏は、地上の音と地中の静けさとで、できている。

Japanese festival procession with lantern-lit floats and people in traditional clothing at night

千年前の疫病対策が今も現役の風景として残っている街なんて世界におそらくない:祇園祭

七月の京都は、街ごと祭りになる。月初めの吉符入りから、月末の夏越祭までの一カ月が祇園祭である。

宵山の夕暮れ、コンチキチンの祭り囃子が路地に流れ、駒形提灯に灯がともると、まるで千年前にタイムスリップしたようになる。

華やかな祭りだと思われているが、始まりにあったのは、喜びではなく恐怖だった。

平安時代の初め、都はたびたび疫病に襲われた。当時、医学では手の打ちようがなく、人々は流行り病を、無念の死を遂げた人たちの怨霊の仕業だと考えた。この怨霊を鎮めるための儀式が御霊会である。

869年、疫病退散を祈って当時の国の数(66か国)になぞらえ、神泉苑に66本の鉾(ほこ)を立て、日本中の穢れを祓ったのが祇園祭の始まりと伝えられている。

祇園社に祀られた牛頭(ごず)天王は、疫病を司る恐ろしい神だった。恐ろしいからこそ、丁寧に祀る。災いをもたらす神を大切な客として迎え、慰め、お帰りいただく。祭りとはもともと、人間が恐ろしい神様と交わした約束事だったのだろう。

その記憶は、今も町の玄関先に残っている。祇園祭の粽である。食べる粽ではない。笹で作った御守りには「蘇民将来之子孫也」と書いてある。

昔、スサノオノミコトが旅の途中、裕福な弟に宿を断られ、貧しい兄の蘇民将来(そみんしょうらい)には手厚くもてなされた。神はそのお礼に、あなたの子孫は疫病にかからないだろうと約束した、という言い伝えに由来する。京都の家々は一年間この粽を戸口に掛け、「うちは蘇民将来の子孫です」と疫病の神に伝え続けているわけである。

思えば私は、予備校時代の一年を京都で過ごした。多感な浪人生の一年である。当時は受験のことで頭がいっぱいで、町家の戸口に下がる粽の意味など気にも留めなかった。

だが後になって思い返すと、下宿への行き帰り、毎日のように目にしていたあの粽こそ、千年前の疫病対策そのものだったのだと気づく。当時は素通りしていた景色に、何百年分もの祈りが仕込まれていたわけである。

戸口に印をつけて災いをやり過ごすという発想は、実は日本だけのものではない。

旧約聖書の出エジプト記には、エジプトを襲う疫病から逃れるため、イスラエルの人々が子羊の血を家の戸口に塗り、それを見た災いが家を「過ぎ越して」いった、という話がある。過越祭の由来である。

目に見えない災いに対して、戸口に印をつけ、我が家は来る場所ではないと申告する。地理的にも時代的にもかけ離れた二つの民族が、同じ発想にたどり着いているのは興味深い。

千年前の疫病対策が、今も現役の風景として残っている街は、世界を見渡してもほとんどないだろう。

この祭りのすごさは、続いてきたことにある。応仁の乱で都が焼け野原になったとき、祭りは30年余り途絶えた。それを復活させたのは、朝廷でも幕府でもない。町衆、つまり京都の商人や職人たちだった。祭りは上から与えられるものではなく、町の人たちが自分たちで担ぐものになったのである。

そして記憶に新しいところでは、コロナ禍の際、山鉾巡行は二年にわたって中止され、2022年に戻ってきた。疫病のせいで止まった疫病退散の祭りが、疫病の収束とともに再開する。私たちは知らないうちに、応仁の乱の後の町衆と同じことをしているのである。

山鉾を近くで見ると、もう一つ気づくことがある。

鉾を飾る布には、ペルシャの絨毯や十六世紀ヨーロッパのタペストリーなど、海を渡ってやってきた織物が数多く使われていて、これが山鉾が「動く美術館」と呼ばれる理由になっている。疫病を祓う祭りが、外国から来た織物で飾られているのだ。病も海を越えてやってきたが、美しいものもまた海を越えてやってきた。

京都の町衆は、世界との関わりを恐れて閉じこもるのではなく、その中から最良のものを選んで神様の乗り物を飾ったのである。この思い切りの良さと趣味の良さには感心させられる。

パンデミックを経験した私たちには、この祭りの祈りが、以前より身近に感じられるはずである。目に見えない災いに、共同体としてどう向き合うか。

恐怖を作法に変え、作法を美しさに変え、その美しさを千年続けていく。祇園祭とは、その一連の流れをそのまま見せてくれる、共同体の記憶装置なのだと思う。

宵山の人混みに立って囃子を聞いていると、この音を聞いてきた千年分の人々の、その祈りの列の一番後ろに自分も並んでいるような気がしてくる。今年もまもなく、鉾が都大路を巡る。

疫病退散。この四つの文字が、これほど身に沁みる時代も少ない。

Bamboo tree decorated with colorful wish tags under a starry night sky with the Milky Way visible

七夕の天の川ってもう誰も見ていない。7月ではなく8月に見よ。

七夕が過ぎた。商店街の軒先に立っていた笹が片付けられ、色とりどりの短冊も、子どもの文字で「サッカーせんしゅになれますように」と揺れていたあの願いごとも、この夏の記憶の奥へ仕舞われていく。

ふと考える。この祭りの主役であるはずの天の川を、七日の夜、見上げた人がどれほどいただろうか。そもそも私たちは、天の川を最後にいつ見ただろうか。

万葉の人々は、見ていた。万葉集には七夕を詠んだ歌が百三十首余りあるとされ、一つの主題としては異例の厚みである。柿本人麻呂歌集には、こんな歌がある。

天の川 楫(かじ)の音聞こゆ 彦星と 織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも

天の川から舟を漕ぐ楫の音が聞こえてくる、彦星が織女に逢いに渡っているらしい、という歌だ。

注意したいのは、歌人たちは実際に夜空を仰ぎ、白くけぶる光の帯を見て、そこに川の水音や楫の音まで感じ取っていた。彦星と織女の物語は、確かに空に実在していたと思われる。

その七夕が、少しずつ私たちから切り離されていく。

最初の切断は、明治六年の改暦。七夕は本来、旧暦七月七日の行事である。旧暦のその夜は晴天率の高い盛夏にあたり、宵のうちに月が沈んで、天の川が最もよく見える頃合いだったとされる。星の祭りは、星の見える夜に開かれていた。

ところが改暦によって、七夕は梅雨の季節行事に固定されてしまった。国立天文台が旧暦に準じた「伝統的七夕」の日を毎年八月に報じているのは、このねじれへのささやかな異議申し立てなのだろう。

二度目の切断は、もっと静かに進んだ。光害である。

2016年に国際研究チームが発表した調査によれば、天の川が見えなくなるほど明るい夜空の下に暮らす人は世界人口の三分の一を超え、日本では人口のじつに七割に上るという。多くの日本人が、自然の状態より明るい夜を過ごしていて、晴れていても、もう見えないのだ。

研究チームの一員は、光害の本当の損失は天体観測への支障ではなく、星空を眺めて思索する機会が人から奪われることだ、という趣旨を述べていた。粋なコメントだと思う。

失われたのは、天の川という風景であると同時に、仰ぎ見ながら何かを思う、その時間なのだ。うつむいてスマホの画面を繰る現代人の姿勢とは真逆といえる。

それでも、川は消えたわけではない。街の光が届かない場所へ行けば、天の川は千年前と同じ顔で流れている。

いつだったか、太平洋の島で夜、何気なく顔を上げた瞬間のことを覚えている。空の真ん中に、白い帯が音もなく横たわっていた。ああ、これを万葉の人は毎晩見ていたのか、千年前の歌は比喩ではなく見た通りの写生だったのかと気づいた。

今年の七夕は、もう過ぎてしまった。だが幸いなことに、本当の七夕はまだ先である。

旧暦に従えば、牽牛と織女の逢瀬の夜は八月に巡ってくる。今年は八月十九日。梅雨も明け、宵に月が沈み、天の川が最もよく見える、古人が祭りを置いたその夜に。

短冊はもう仕舞われたが、願いごとを一つ伝えてはどうか。その晩は、どこか暗い空の下から見上げられますように。

Crowd of soccer fans in red and blue sections at stadium cheering with flags and banners

W杯熱狂の裏側:「日本人」という強烈な連帯感はいつ生まれる?

普段はサッカーに全く興味がない人でも、ワールドカップ(W杯)の日本代表戦となれば、テレビの前にかじりつき、青いユニフォームを着て熱狂する。

深夜・早朝であろうと眠い目を擦りながらキックオフの時間に起きて応援する。

あの期間中、私の中にも沸き起こり、日本中を包み込む「私たち日本人」という強烈な連帯感は、一体どこから湧いてくるのだろうか。


文化人類学のメガネをかけてこの現象を眺めると、面白い事実が見えてくる。

それは、「私たちは『日本人だから』応援しているのではなく、W杯があるから『日本人になる』」という逆転の構造である。

「日本人」の境界線はどこにあるのか?

私たちは普段、「自分が日本人であること」を疑わない。しかし、文化人類学の視点から「日本とは誰を指すのか?」と問われると、その実体は非常に曖昧だ。

たとえば「血筋(ルーツ)」を基準にしようとしても、両親が非日本人であっても日本で育ち「日本人」のアイデンティティを持つ人はいる。

あるいは「国籍」を基準にしても、ノーベル賞受賞者のカズオ・イシグロ氏(英国籍)やノーベル物理学賞受賞の眞鍋淑郎氏(米国籍)を、私たちはどこか「日本人」として誇らしく思ってしまう。

このように、「これがあれば日本人だ」という明確な共通性や客観的な基準で、人間の集団に固定的な線を引くことは到底できないのである。

「文化が違うから」境界ができるのではない

ここで非常に重要なヒントを与えてくれるのが、文化人類学者バルト。

私たちは通常、「同じ言語や習慣(文化)を共有している人たちが集まって、一つの民族(集団)になる」と考えがちだ。しかしバルトはこれを真っ向から否定し、「独自の文化があるから民族があるのではなく、境界があるから民族がある」と主張した。

どういうことか。バルトによれば、「文化が異なるから民族のあいだの境界線が引かれるのではなくて、境界線を引こうとするから文化の違いが強調される」のである。

文化人類学では、このように状況によって境界線が引かれたり、集団の輪郭が変わったりする柔軟で可変的な集団の特性を「エスニシティ」と呼んでいる。

W杯という巨大な「境界線」

ワールドカップの熱狂は、まさにこの「境界線とエスニシティ」のメカニズムそのものだ。

普段の日本社会において、私たちは「〇〇会社の社員」「〇〇大学の学生」「上司と部下」「男性と女性」といった無数の小さな境界線の中でバラバラに生きている。

満員電車で隣り合う見知らぬ他人に、「あぁ、私たち同じ日本人だね」という連帯感を抱くことはまずないだろう。

しかし、W杯という巨大なイベントは、「日本 対 オランダ」といった形で、他国との間に、強烈な「境界線」を世界規模で引いてみせる。

強大な「他国(対戦国)」が現れ、そこに境界線が引かれた瞬間、普段はバラバラの価値観で生きている私たちの間に、「彼らとは違う『私たち(日本人)』」という帰属意識(エスニシティ)が事後的に、そして爆発的に立ち上がるのだ。

お祭りが生み出す「私たち」

そう、私たちはあらかじめ強固な「日本人」という実体を持っているわけではない。W杯という舞台で「他者との境界線」が引かれた瞬間に、一時的に、そして強烈に「私たち日本人」というアイデンティティを創り出しているのだ。

ワールドカップとは、単なるスポーツの祭典ではない。国と国との境界線をエンターテインメントとして消費し、私たちが普段は忘れている「私たち」というアイデンティティ(エスニシティ)を強烈に呼び覚ます、巨大な文化装置なのである。

大阪・関西万博で「クールジャパンアワード2025」表彰式

過日、大阪・関西万博で「クールジャパンアワード2025」表彰式を無事終了。

あらためて、ご来賓の関代議士、溝畑大阪観光局理事長、ご後援いただいた各省庁・関係機関、ご講演いただいた特別顧問のカーさん、ハリスさん、劇団往来さんをはじめとする運営スタッフの皆さん、審査・推薦・キュレーターの皆さん、そして準備に奔走された太田会長、今城さん、小野事務局長、太田統括キュレーター、ジーリ専務理事、田中理事、ローレン理事、貴重な機会をいただいて心よりお礼申し上げます。

46団体の受賞は日本の伝統と革新が見事に融合した証。本当におめでとうございます。多くの受賞者の皆さんが遠路ご参加され、非常に盛会となりました。

大変遅ればせながら、深く御礼申し上げます。今後ともご支援ご協力をお願いします。

郷土に刻まれた司令長官の言葉

先日実家に帰省した際、福井市役所の玄関に二つの巨大な書が掲げられているのに初めて気付いた。

一つは岡田啓介の「恭倹博愛」、もう一つは加藤寛治の「修道保法」。ともに福井市出身、第16代と第17代の連合艦隊司令長官という絶妙な組み合わせ。

ちなみに、「恭倹博愛」とは、人には礼儀正しく、自分は謙虚に質素に振る舞い、すべての人を平等に愛し慈しむこと。「修道保法」とは、道義を正しく身につけ、組織の秩序や規則を保つこと。いずれも組織の長たる要諦か。自身の座右の銘であったに違いない。

日本のラグジュアリーツーリズムの未来とは

昨日、日本青年会議所(北陸信越地区協議会・富山市にて開催)にお招きいただいた。

クールジャパン協議会・代表理事の立場で、太田会長とジュリアンジーリ専務理事、wipコネクト高木社長と共に、「ラグジュアリーツーリズム」について講演。

北陸新幹線が福井県敦賀まで延伸されたことで、地域(長野県、新潟県、富山県、石川県、福井県)に対する期待がものすごく高まっているのがわかる。

東京・京都・大阪を結ぶ東海道ルートのオーバーツーリズムへの対策として、北信越ニューゴールデンルートの開発にお役に立てると嬉しい。

「クールジャパンアワード」も、コロナ禍での延期を経て、2025年の開催に向けて準備が始まるので、自薦他薦を寄せてください。
http://www.cooljapan.info/about.html

ワシントンポスト紙に福井

ワシントンポスト紙「2024年に喧騒を離れて旅行すべき場所12」に日本・福井が選ばれた。(画像は永平寺)

2024年は日本の観光がコロナ前のレベルを超える可能性あり。都市の喧騒から離れ、最もスピリチュアルな地域を見たいなら福井へ行け。福井には寺院、温泉、芸術、食事(特に越前ガニ)があり、3月に新幹線が開通すると、東京から約3時間で到着することができる、とさ。

慧眼だ(嬉)

南外吉の波乱万丈な人生と登別温泉旅館の歴史

登別温泉・第一滝本館。知る人ぞ知る南外吉さんという波乱万丈の人生をくぐった人が中興の祖として同館の歴史に名を刻んでいる。

彼は最初水運会社で巨万の富を築いた。しかし洪水にあって倉庫も船も失って一文無しになってしまう。お金に困って、その後、札幌の風呂屋で釜焚きをするが、風呂屋が閉鎖して失職。

次に300坪の土地を借りて大豆を作ったら大成功。全財産をはたいて3000坪の土地を借りて大豆を作ったら大雨で大失敗、借金を抱えてしまう。

その後、旅館に養子にやっていた息子を頼って、その旅館の下男の仕事を始めた。苫小牧の駅前で旅館案内をするために吹雪の中で、毎日必ずずっと立って客待ちをしていたらしい。

その頃、滝本さんという老夫婦が登別で5部屋ほどの旅館を経営していたが、後継ぎがいないというので買い手を探しているとき、客待ちをしている南外吉の姿を見ていた登別森林鉄道の社長が、外吉さんに「滝本館」を買わないかと声がけした。しかし外吉さんにはお金がない。社長は「私が全部貸してあげるから、お金ができたら返してくれ」と言ってくれた。そのお金で滝本館を買い取った。63歳の時だった。

その後、外吉さんは75歳で亡くなるが、5室の滝本館がその後30年で400室の温泉旅館になった。

まさに塞翁が馬。人生、なにが起きるかわからない。

日本産水産物輸入の全面停止

日本産水産物輸入の全面停止。「海洋が汚染される」というからには、今後、中国の人たちは海産物を食べなくなり、中国の漁船は日本近海はもちろん太平洋全体に行けなくなる。すると同国の漁業関係者や海産物を扱う業者や飲食関係者も大変困るだろうに・・・

売れなくて行き場のない日本の水産物は干物にしよう。今後、日本人がさらに魚を食べることで日本の漁業を応援できるし健康にも役立つはず w

世界レベルの偉人・伊能忠敬

伊能忠敬が19歳年下の先生に仕えたのが50歳の時。そして天文学と測量を学び、54歳から17年かけて4万キロ歩いて日本全国を測量した彼の人生は、日本の(世界の)中年層を奮い起こしてくれる偉大な人生だと改めて思う。

そんな彼の生家と街を訪問したくて過日、香取市佐原に立ち寄った。彼は自分の歩幅を基に測量し日本地図を描いた。その歩幅はこの橋を渡るのに13歩だったらしい。

そこで私も普通に渡ったら、同じく13歩!ワオ! 時を超えて彼と同じ(笑)

同じぐらいの年、というか、当時の寿命は60歳程度であることを考えると、もっともっと頑張れよ、って言われた気がした(笑)

宇宙に広がる「たなばたさま」の歌詞

ささの葉さらさら
のきばにゆれる
お星さまきらきら
きんぎんすなご

ごしきのたんざく
わたしがかいた
お星さまきらきら
空からみてる

一言も七夕と言わず、「さらさら」「きらきら」「ゆれる」と視覚的に動きを作りながら、「きんぎん」「ごしき」と色の配色をつけ、一番と二番を「ご」でつないで、最後にドーンと「空からみてる」と締めている

お天道様(太陽)が出ていない時でも星が見てるよ、見守っているよ、と宇宙にイメージを広げる歌詞が本当にすばらしい

そんな「たなばたさま」の作詞は権藤はなよさん(1899~1961)
みなさんの願いが叶いますように・・・

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の

小学生の頃、かるた大会に備えて、意味もわからず、百人一首をいやいや覚えていた私。一気に初夏がやってくる、こんな季節には


春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山


という持統天皇の歌が最高。女性である持統天皇が、晴れ上がった日の午前中、ご自身で洗濯をしつつ、若くして亡くなった夫の天武天皇を香具山に見立てて、「あなた、今日は天気がいいから、お洗濯日なのよ~」なんて、高らかに言いながら、真っ白な洗濯物を干している、そんな映像を思い浮かべてみてほしい。


日本が誇る世界最古レベルの女流歌人の一人・持統天皇の晴れ晴れとした爽やかな気持ちをきっと共有できるはず(笑)


岡田啓介首相や南部陽一郎氏も寄宿

福井県から上京する男子学生のための学生寮(明倫学舎・吉祥寺東町)が入寮希望者を募集中。ちなみに私は同学生寮の評議員。

岡田啓介首相(当時は神田寮)やノーベル賞受賞の南部陽一郎氏(当時は小石川寮)も寄宿した。現在、旧大野藩主土井氏の寄贈地(吉祥寺東町)のみに寮がある。最近、図書室が新しくなって快適度アップ。おススメしたい。

明倫学舎 入舎をお考えの方へ
http://meiringakusha.com/recruiting/

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福井の伯父が旅立った

週末にお見送りができて良かった。

同じ巳年生まれで、起業したのも同じ29歳だった。結婚の際は大阪の家内の実家まで結納の挨拶に来てくれた。パリでは一緒に二人で観光した。起業も応援してくれた。東京オフィスを立ち上げた時は様子を見に来てくれた。盆と正月はいつも笑顔で迎えてくれかわいがってくれた。

親族全員のお世話をする責任感の強い優しい伯父だった。感謝の言葉しかない。安らかに眠ってください。

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