Crowd of soccer fans in red and blue sections at stadium cheering with flags and banners

W杯熱狂の裏側:「日本人」という強烈な連帯感はいつ生まれる?

普段はサッカーに全く興味がない人でも、ワールドカップ(W杯)の日本代表戦となれば、テレビの前にかじりつき、青いユニフォームを着て熱狂する。

深夜・早朝であろうと眠い目を擦りながらキックオフの時間に起きて応援する。

あの期間中、私の中にも沸き起こり、日本中を包み込む「私たち日本人」という強烈な連帯感は、一体どこから湧いてくるのだろうか。


文化人類学のメガネをかけてこの現象を眺めると、面白い事実が見えてくる。

それは、「私たちは『日本人だから』応援しているのではなく、W杯があるから『日本人になる』」という逆転の構造である。

「日本人」の境界線はどこにあるのか?

私たちは普段、「自分が日本人であること」を疑わない。しかし、文化人類学の視点から「日本とは誰を指すのか?」と問われると、その実体は非常に曖昧だ。

たとえば「血筋(ルーツ)」を基準にしようとしても、両親が非日本人であっても日本で育ち「日本人」のアイデンティティを持つ人はいる。

あるいは「国籍」を基準にしても、ノーベル賞受賞者のカズオ・イシグロ氏(英国籍)やノーベル物理学賞受賞の眞鍋淑郎氏(米国籍)を、私たちはどこか「日本人」として誇らしく思ってしまう。

このように、「これがあれば日本人だ」という明確な共通性や客観的な基準で、人間の集団に固定的な線を引くことは到底できないのである。

「文化が違うから」境界ができるのではない

ここで非常に重要なヒントを与えてくれるのが、文化人類学者バルト。

私たちは通常、「同じ言語や習慣(文化)を共有している人たちが集まって、一つの民族(集団)になる」と考えがちだ。しかしバルトはこれを真っ向から否定し、「独自の文化があるから民族があるのではなく、境界があるから民族がある」と主張した。

どういうことか。バルトによれば、「文化が異なるから民族のあいだの境界線が引かれるのではなくて、境界線を引こうとするから文化の違いが強調される」のである。

文化人類学では、このように状況によって境界線が引かれたり、集団の輪郭が変わったりする柔軟で可変的な集団の特性を「エスニシティ」と呼んでいる。

W杯という巨大な「境界線」

ワールドカップの熱狂は、まさにこの「境界線とエスニシティ」のメカニズムそのものだ。

普段の日本社会において、私たちは「〇〇会社の社員」「〇〇大学の学生」「上司と部下」「男性と女性」といった無数の小さな境界線の中でバラバラに生きている。

満員電車で隣り合う見知らぬ他人に、「あぁ、私たち同じ日本人だね」という連帯感を抱くことはまずないだろう。

しかし、W杯という巨大なイベントは、「日本 対 オランダ」といった形で、他国との間に、強烈な「境界線」を世界規模で引いてみせる。

強大な「他国(対戦国)」が現れ、そこに境界線が引かれた瞬間、普段はバラバラの価値観で生きている私たちの間に、「彼らとは違う『私たち(日本人)』」という帰属意識(エスニシティ)が事後的に、そして爆発的に立ち上がるのだ。

お祭りが生み出す「私たち」

そう、私たちはあらかじめ強固な「日本人」という実体を持っているわけではない。W杯という舞台で「他者との境界線」が引かれた瞬間に、一時的に、そして強烈に「私たち日本人」というアイデンティティを創り出しているのだ。

ワールドカップとは、単なるスポーツの祭典ではない。国と国との境界線をエンターテインメントとして消費し、私たちが普段は忘れている「私たち」というアイデンティティ(エスニシティ)を強烈に呼び覚ます、巨大な文化装置なのである。

Crowd of fans in blue jerseys celebrating at a busy Tokyo intersection at night.

W杯熱狂の裏側:渋谷のスクランブル交差点でハイタッチする理由

「ワールドカップ」熱狂の裏側に何があるのか?
文化人類学の視点から

普段の満員電車を思い出してほしい。隣の人と肩が少し触れただけでも、「チッ」と舌打ちが聞こえてきそうな、冷たくピリピリとした空気がある。

日本社会は、会社や学校といった同じ「場」を共有する身内、すなわち「ウチ」には優しい反面、見知らぬ人、すなわち「ヨソ者」に対しては非常に排他的で冷たい傾向がある。

ところが、ワールドカップで日本代表が歴史的勝利を収めた時はどうだろう。渋谷のスクランブル交差点には青いユニフォームを着た人々が殺到し、普段なら絶対に目を合わせないような若者、サラリーマン、ギャル、外国人までもが、満面の笑みで見知らぬ者同士ハイタッチをし、抱き合っている。

この「魔法のような現象」は、単なるお祭り騒ぎや若者の悪ノリなのだろうか。そうではない。文化人類学の視点から見ると、これは現代人が無意識に行っている「巨大な儀礼」であることが見えてくる。

日常を脱ぎ捨てる「3つのステップ」

人類学者ファン・ヘネップは、世界中のさまざまな儀礼、たとえば成人式や結婚式などを分析し、それらが〈分離〉〈過渡〉〈統合〉という3つの局面から成り立っていることを見出した。実は、渋谷での熱狂もこのプロセスに見事に重ね合わせることができる。

① 〈分離〉:青いユニフォームは「変身アイテム」

最初の〈分離〉とは、日常から切り離される段階である。試合当日、トイレでこっそりスーツを脱ぎ、日本代表のユニフォームに着替え、頬に日の丸のフェイスペイントをした瞬間、人はどうなるか。その人は「〇〇会社の課長」や「〇〇大学の学生」といった日常の肩書きから切り離される。あの青いユニフォームは、日常のしがらみを脱ぎ捨てるための「儀礼の衣装」なのである。

② 〈過渡〉:地位が消滅する「空白地帯」

次にやってくるのが〈過渡〉の局面である。人類学者ヴィクター・ターナーは、この「日常から切り離された、どっちつかずの境界状態」を「リミナリティ(境界状況)」と呼んだ。試合終了のホイッスルとともに、スクランブル交差点という巨大な「リミナリティ空間」が現出する。そこは、「赤信号で止まる」「他人にむやみに話しかけない」といった日常のルールが一時的に無効化される、特別な空間である。

究極の連帯感「コミュニタス」の爆発

このリミナリティ空間で何が起きるのか。ターナーによれば、この状態に置かれた人々からは、あらゆる地位や身分が剥ぎ取られ、そこに「絶対的な平等意識」や「仲間意識」が生まれる。ターナーはこれを「コミュニタス」と名付けた。

これこそが、ハイタッチの正体である。普段は「ウチ」と「ヨソ」を厳格に分ける私たちも、青いユニフォームという「共通の象徴」を身にまとい、スクランブル交差点という非日常空間に放り込まれた瞬間、そこにいる数千人の「ヨソ者」を、すべて「日本代表を応援する仲間」、すなわち「ウチ」へと反転させる。

そこには上司も部下も、金持ちも貧乏もない。日常の息苦しい属性から解放された究極の「コミュニタス(連帯感)」の中で、私たちは嬉しくてたまらず、見知らぬ誰かにハイタッチを求めてしまうのである。

③ 〈統合〉:祭りのあと、再び日常へ

そして、儀礼の最後は〈統合〉である。夜が明け、始発の電車に乗る頃にはフェイスペイントを洗い落とし、再びスーツや私服に着替えて、人々はそれぞれの「日常の秩序」へと帰っていく。

ワールドカップは「ガス抜き」装置

文化人類学の視点から見れば、渋谷のスクランブル交差点は、地位や肩書き、見えない同調圧力に縛られて生きる現代人が、すべてを忘れて「コミュニタス」の熱狂に浸るための、壮大な「ガス抜きの場」といえる。

次にワールドカップでハイタッチのニュースを見かけたら、「現代の儀礼が機能し、強烈なコミュニタスが発生しているのだ」と考えてみるとよい。少しだけ、世界の見え方が変わるはず(笑)