London financial district skyline with illuminated stock market graphics at dusk

株価の落下から逃げられなかったニュートン

日経平均が六万六千円台にある。

バブル期の最高値は、三万八千九百十五円であった。1989年の大納会。あの数字を、私の世代は長いあいだ「天井」として記憶してきた。二度と届かない高さ、という意味である。いま30歳代の人にとっては、ただの歴史上の数字だろう。遠い昔の、ずいぶん低い場所についた記録にすぎない。

数字の桁は変わっていくが、それを見る人の心のほうは、あまり変わっていない。

1720年、ロンドンで南海会社の株が暴騰した。植民地貿易の独占権を背景に、誰も実態を確かめないまま値が跳ね上がり、そして崩れた。この騒ぎで損をした一人が、アイザック・ニュートンである。天体の運行は計算できるが、人間の狂気は計算できない。彼がそう嘆いたと伝えられている。万有引力を発見した人物が、株価の落下からは逃れられなかった(笑)

もう少し遡れば、17世紀のオランダでは、球根一つが家一軒と交換された。チューリップである。後年の研究では、その被害はかつて語られたほど深刻ではなかったとも言われるが、球根に家の値がついたこと自体は動かない。

こうした話を、人は笑う。球根に家一軒とは愚かだ、と。だが笑っている当人が、翌日には数字の上下に一喜一憂している。何を隠そう、私だ(笑)

面白いのは、上がっても下がっても人が落ち着かないことである。上がれば乗り遅れたかと焦り、下がれば失ったと嘆く。どちらにせよ、心は数字に握られている。

桁が一つ増えたところで、そこは変わらないのだろう。おそらく永遠に。

上記の南海泡沫事件から三百年。人間の側は、たいして進歩していない、とあらためて思う。

Hourglass beside an open manuscript on a wooden table

忙しい、と言わないために:セネカ『人生の短さについて』

盆休みが明けた。

休み明けの数日というのは、どうも調子が出ない。たまった連絡に目を通し、動き出した予定に追われているうちに、休んでいたことを忘れる。そして気づくと、また「忙しい」と口にしている。

セネカの『人生の短さについて』を思い出した。二千年近く前、ローマの哲学者が友人に宛てて書いた短い本である。

彼は言う。人生は短いのではない。我々がそれを短くしているのだ、と。

与えられた時間は、実は十分に長い。ただ、そのほとんどを、人は他人のために使い、無駄なことに費やし、そして最も皮肉なことに、いつか来る「そのうち」のために取っておく。今日を生きずに、いつか暇になったら本当にやりたいことをやろうと考える。そうして、その日が来る前に人生が終わる。

とりわけ痛烈なのは、忙しさに関する彼の観察である。

多忙な人ほど、実は何も成し遂げていない。自分の時間を他人に渡しておきながら、その状態を誇っている。財産を人に分け与えることには誰もが慎重なのに、時間だけは、求められるままに際限なく差し出してしまう。人が最も惜しむべきものを、人は最も気前よく手放す。

二千年前のローマにも、忙しさを自慢する人間が沢山いたということだろう。予定表を埋めることが充実の証だと信じ、空白を恐れ、次から次へと人と会い、そして何一つ自分のためには使っていない。まったく、今の私たちと変わらない。

皮肉なのは、彼自身が皇帝ネロの側近として、ローマで最も多忙な人間の一人だったことだ。おそらく、この本もまた、書いた本人が実践できていたかどうか…、いや、できていなかったからこそ、自分に向けた戒めとして書いたのだろう。言葉に切実さがある。

こうした実情に対し、彼が勧めているのは、意外に地味な処方である。それは、過去の賢者たちと交わること。

つまり、本を読むこと。彼らはいつでも会ってくれるし、こちらの時間を奪わない。そして自分自身のために時間を取ること。それだけである。

問い直すべきは、休むかどうかではなく、自分の時間を何に使っているか、ということ。

セネカはこうも言っている。人は、自分の土地に他人が入ってくれば怒るのに、自分の人生には誰でも入らせてしまう、と。

今後しばらく「忙しい」と言うのをやめてみようと思う。口にするたび、本当に忙しくなっていく気がするからだ。

Thick coiled rope on wooden surface with intricate shadow on rough wall

禍福はあざなえる縄のごとし

災いと幸福は、寄り合わせた一本の縄のようなもの。古い言葉です。

縄というのは、二本の糸をより合わせて作ります。どちらか一方だけでは、縄になりません。表に出ている糸は、少し進めば裏へ回る。裏に隠れていた糸が、次には表に出てくる。

今は、災いの糸が表に出ている時です。それも、これ以上ないほど強く。停電の暗がりで、暑さに耐えながら、なぜ自分たちが…と思われていることでしょう。当然です。

ただ、縄はまだ続いています。この古い言葉の通り、今表に出ているものが、ずっと表であり続けることはありません。

気の利いた慰めは持ち合わせていません。どうか少しでも休んでください。

泥かぶらの三つめの約束。「何か私にできることはありませんか」

書棚の一角に、時々引っ張り出しては読み返す絵本がある。『泥かぶら』である。

子ども向けの本を読み返すのは気恥ずかしい。ただこの一冊は、読むたびに刺さる場所が変わる。変わるのは、たぶんこちらのほうだろう。

物語はこうだ。

醜い顔のために泥かぶらと呼ばれ、石を投げられて育った少女がいる。誰からも疎まれ、自分でも自分を憎んでいた彼女の前に、ある日、老人が現れる。美しくなりたいと願う少女に、老人は三つのことを守れば必ず美しくなれると告げる。

一つ、自分をみじめだと思わないこと。 二つ、いつも笑顔でいること。 三つ、人のお手伝いをすること。

呪文でも薬でもない。少女は半信半疑のまま、とくに三つめを愚直に続ける。歳月が過ぎ、いつしか村の人々の目に、彼女は美しく映るようになっていく。

近ごろ気になるのは、この三つが同列ではないことである。

はじめの二つは、自分の内側だけで完結する。三つめだけは相手がいる。誰かのところへ出向き、声をかけ、手を動かさなければ一歩も進まない。そして三つめが、前の二つを連れてくるのではないか。

大人の日常でこれに当たるのは、たぶん「何か私にできることはありませんか」という一言である。

この問いを向けられて、人ははじめて自分が本当に困っていることを口にする。

この問いが習慣になると、目の前の人を「自分に何をしてくれる人か」ではなく「自分が何をできる相手か」として見るようになる。受け取る側から差し出す側へ、世界の見え方がひっくり返る。

歳を重ねるほど、人は「何かできることはありませんか」と問われる側になっていく。問う側でい続けるには、それなりの意識が要るらしい。書棚からこの絵本を引っ張り出すのは、たぶんその確認のためなのかもしれない。

人々の常識をひっくり返した男、レヴィ=ストロース

フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースらが提唱し、当時の世界にものすごい衝撃を与えた考え方がある。一言で言うと、「世の中のいろいろなことの裏には『見えないルール(構造)』が隠れている」という考え方である。いわゆる「構造主義」だ。

私たちは「見えないルール」に動かされている

たとえば、私たちが普段日本語を話すとき、「ここは主語だから『が』をつけて、次は動詞で…」なんていちいち文法(ルール)を意識していない。でも、無意識のうちに全員が同じルールに従っているからこそ、会話が成り立つ。

レヴィ=ストロースは、こうした「言語のルール」を研究する学問(構造言語学)にヒントを得て、「人間の社会や文化も、言葉の文法と同じように、みんなが気づいていない『無意識のルール(構造)』で動いているんじゃないか?」と考えた。

アマゾンの奥地で見つけた「驚きのルール」

彼は実際にアマゾンの奥地に行き、さまざまな原住民の生活を観察した。一見すると、彼らの生活や風習は、近代的な西洋の人間からすれば「野蛮」で「めちゃくちゃ」に見えた。

しかし、レヴィ=ストロースが彼らの文化の「奥底」をじっくり分析すると、そこには驚くべき事実があった。

たとえば、カドゥヴェオ族という部族の女性たちは、顔に複雑で迷宮のような幾何学模様を描く。一見バラバラで適当に描いているように見えるが、実はトランプの絵札のように、ものすごく計算された「対称性(バランス)」のルールに従って描かれていたのだ。また、神話や結婚のやり方などにも、まるで数学のようにきっちりとした複雑なルールが隠されていることを突き止めた。

表面上はバラバラで意味不明に見える現象の奥底には、実は「美しい法則(構造)」が隠されているのだ。

なぜ構造主義は「常識をひっくり返した」のか?

この構造主義という考え方は、主に2つの点で、当時の人々の常識をひっくり返した。

① 「我々は、見えないルールの上で踊らされているだけ」という衝撃

当時のヨーロッパでは、「人間は自分の意思で自由に考え、自分で歴史を作っていく生き物だ(実存主義)」と信じられていた。しかし構造主義は、「いやいや、人間は自分で自由に考えているつもりでも、実は自分では気づいていない『社会の見えないルール(構造)』の上で踊らされているだけだよ」と突きつけたのだ。これは当時の知識人たちに大きなショックを与えた。

② 「西洋が一番進んでいる」という思い込みをぶっ壊した

それまでは、「西洋の近代文明が進んでいて、アマゾンなどの原住民は遅れた未開の人たちだ」という偏見が当たり前だった。しかし構造主義は、「一見遅れているように見える部族の文化にも、西洋文明と同じくらい高度で複雑な『見えないルール(構造)』がしっかり存在している」ことを証明した。 つまり「どの文化が上か下かなんてない。見た目が違うだけで、人間の頭の中にある『構造』はみんな同じなんだ」ということを明らかにしたわけだ。

このメガネをかけて世界を見ると、「自分たちと違う変な人たち」と思えた相手の中にも、自分たちと同じような「隠れたルール」があることに気づき、世界をよりフラットに、深く理解できるようになるのだ。

ブラジルの奥地に「人間の最も感動的な愛」を見つけた

ブラジルの奥地に住むナンビクワラ族。彼らは服も家もなく、極限まで貧しい生活を送っている。それでも、家族で寄り添い、笑い合い、愛情深く生きている。夜になると、家族は焚き火の周りに裸で寄り添って身を寄せ合い、夫婦はお互いを労わりながらシラミを取り合ったり、冗談を言って笑い合ったりしている。また、子どもに対しては怒ったり罰を与えたりすることはめったになく、非常に深い愛情を注いで大切に育てている。

彼はそこに「人間の最も感動的な愛」を見た。 物質的な豊かさがなくても、人間の根底には確かな愛がある。その事実を知ることが、深い慰めと静かな幸福を与えてくれる。

『悲しき熱帯』 お時間あるときに読んでみてください。

Stack of hardcover books and a smartphone on a wooden desk with sunlight

なぜ誘惑に負けるのか? それには科学的な理由がある

「今日こそは絶対に勉強するぞ」と決意したのに、いざスマホを目にすると何時間も動画を見てしまう。「明日からダイエットする」と誓ったのに、目の前のケーキを我慢できない。私たちはなぜ、長期的な利益を損なうとわかっている「自滅的な行動」を繰り返してしまうのだろうか。

ジョージ・エインズリー氏による著書『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』は、古代ギリシャから「アクラシア(意志の弱さ)」と呼ばれてきたこの謎に、行動科学の視点から鮮やかな答えを出している。そのカギとなるのが「双曲割引」と「複数の自己」という概念だ。

「双曲割引」が引き起こす価値の逆転

従来の経済学では、人間は一貫した価値基準を持ち、将来の利益を一定の割合で割り引いて評価すると考えられていた(指数割引)。しかし、実際の人間や動物の行動はそれとは異なる。著者は、私たちが将来の価値を「双曲割引」という、より深くしなった急カーブを描く曲線で割り引いていることを指摘している。

双曲割引の最大の特徴は、誘惑が遠い未来にあるうちは「長期的な大きな報酬(例:健康)」を高く評価できるのに、誘惑が手に入る直前になった瞬間、一時的な報酬(例:目の前のケーキ)の魅力が急激に跳ね上がり、好みがひっくり返ってしまう点。

つまり、私たちは、将来もらえるご褒美の価値を「もらえるまでの時間」が長ければ長いほど「小さく」見積もってしまう。そして「双曲割引」の最大の特徴は、「ご褒美(誘惑)が目の前に近づいてきた瞬間、急激にその魅力が何倍にも跳ね上がる」という点。

あなたが誘惑に負けるのは気合いが足りないからではなく、この「選好の逆転」つまり好みがひっくり返るという抗いがたい脳のメカニズムがあるからなのだ。

私たちの心は「複数の自己」の議会場

この双曲割引のメカニズムは、私たちの人間観を覆す。私たちは自分自身を「一貫した目的を持つ単一の存在」だと思いがちだが、実際はそうではない。時間帯によって求める報酬が変わってしまうため、人間の内部には「結論のちがう評価者」が次々と入れ替わり立ち替わり登場している。

つまり、心の中に、

・「将来のために頑張りたいマジメな自分」
・「今すぐ目の前の快楽を楽しみたい自分」

という2人が住んでいて、時間帯や状況によって主導権がコロコロ入れ替わりながら、どうするかを決めるのに内部抗争を繰り広げているというわけだ。

自分自身との戦略的ゲーム

それでは、私たちは一生、目先の誘惑に敗れ続ける運命なのだろうか?

本書では、この複数の自己による争いを乗り越えるための手段も書かれている。賢い人は、将来の自分が誘惑に負けて計画を裏切ることを予測し、それを阻止するための戦略を立てる。

つまり自分の行動に「個人的なルール」を設けるなど、現在と未来の自分自身とで「異時点間の交渉」を行うことで、一時的な衝動に対抗しようとするわけだ。

簡単に言うと、「未来の自分が誘惑に負けること」をあらかじめ予測して、先回りして作戦を立てるということ。たとえば…

・家に帰ったら、スマホをリビングの親に預ける
・テレビやゲームがない図書館に行って勉強する

このように、「目の前に誘惑が来ないようにする(跳ね上がる前に遠ざける)」ことが、双曲割引と上手く付き合い、目標を達成するための最大のコツだと言えよう。


本書は、「気合い」や「根性」で誘惑に打ち勝つことを説くものではない。その代わり、人間が生まれつき抱えている「双曲割引」というバグと、心の中にひしめく「複数の自己」の存在を、科学的かつ論理的に解き明かしてくれる。

人間の不合理さをえぐるテーマでありながら、日常的な例や思考実験を通じて、自滅的行動のメカニズムを納得させてくれる。自分の「意志の弱さ」の正体を客観的なシステムとして知ることは、誘惑と上手く付き合い、より良い選択をしていくための最大の武器となるはず。

行動経済学や心理学に興味がある方はもちろん、悪習慣を断ち切りたいと願う人にとって、人間理解の次元を一段階引き上げてくれる隠れた名著だ。

郷土に刻まれた司令長官の言葉

先日実家に帰省した際、福井市役所の玄関に二つの巨大な書が掲げられているのに初めて気付いた。

一つは岡田啓介の「恭倹博愛」、もう一つは加藤寛治の「修道保法」。ともに福井市出身、第16代と第17代の連合艦隊司令長官という絶妙な組み合わせ。

ちなみに、「恭倹博愛」とは、人には礼儀正しく、自分は謙虚に質素に振る舞い、すべての人を平等に愛し慈しむこと。「修道保法」とは、道義を正しく身につけ、組織の秩序や規則を保つこと。いずれも組織の長たる要諦か。自身の座右の銘であったに違いない。

面白くない仕事

仕事の中には面白くない仕事があるかもしれない。面白くない仕事を面白くする工夫は大切だが、面白くない仕事をいかに早く片付けるか、これに知恵を絞り努力することも大切である。

なぜなら、面白くない仕事をどれだけ早く捌けるかで、面白い仕事にどれだけ多く出会えるかが決まるからだ。作業のスピードをもっと上げ、もっとたくさんの面白い仕事に出会いたい。面白い仕事に頭脳と体力をぶつけたい。

南外吉の波乱万丈な人生と登別温泉旅館の歴史

登別温泉・第一滝本館。知る人ぞ知る南外吉さんという波乱万丈の人生をくぐった人が中興の祖として同館の歴史に名を刻んでいる。

彼は最初水運会社で巨万の富を築いた。しかし洪水にあって倉庫も船も失って一文無しになってしまう。お金に困って、その後、札幌の風呂屋で釜焚きをするが、風呂屋が閉鎖して失職。

次に300坪の土地を借りて大豆を作ったら大成功。勢いに乗じ全財産をはたいて3000坪の土地を借りて大豆を作ったら大雨で大失敗、借金を抱えてしまう。

その後、旅館に養子にやっていた息子を頼って、その旅館の下男の仕事を始めた。苫小牧の駅前で旅館案内をするために吹雪の中で、毎日必ずずっと立って客待ちをしていたらしい。

その頃、滝本さんという老夫婦が登別で5部屋ほどの旅館を経営していたが、後継ぎがいないというので買い手を探しているとき、客待ちをしている南外吉の姿を見ていた登別森林鉄道の社長が、外吉さんに「滝本館」を買わないかと声がけした。

しかし外吉さんにはお金がない。社長は「私が全部貸してあげるから、お金ができたら返してくれ」と言ってくれた。そのお金で滝本館を買い取った。63歳の時だった。

その後、外吉さんは75歳で亡くなるが、5室の滝本館がその後30年で400室の温泉旅館になった。

まさに塞翁が馬。人生、なにが起きるかわからない。

やったるわい 言えば元気が 湧いてくる

「やったるわい!」とこぶしを上げて叫びたくなるドラマがある。昭和の関西テレビ『どてらい男(やつ)』だ。

私の名前は、父が好きだった西郷輝彦から採られた。福井出身の主人公が大阪に丁稚奉公に出るところも私の祖父と同じ。私自身も社会人のスタートは大阪だったので主人公と同じ。以前から観たかったドラマだった。

Amazon(京都ch)にあることが判明し、毎晩家内と少しずつ観ていたが、「本編~戦後編」で終了(涙)。「どてらい男ロス」になってしまった(笑)

因みに原作のモデルとなった山本猛夫氏とドラマのあらすじはこちら → https://www.yamazen.co.jp/museum/drama/story/

観れば「やったるわい!」と叫びたくなること請け合い。昔の大阪商人のバイタリティが理解できるだろう。

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魯迅と藤野先生

昨年の「日本タウン誌大賞」を受賞した福楽(夏号)が届いた!今回は、あわら市・藤野厳九郎記念館の記事について。

「私が師と仰ぐ人の中で、彼はもっとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである」

中国の文豪・魯迅の「藤野先生」という短編に登場する文言。魯迅が仙台で医学を学んだ時の恩師があわら市出身の藤野厳九郎先生であり、彼は帰国後も先生の写真を掲げて自らを鼓舞していたらしい。

中国では「藤野先生」はよく知られているが、福井県(あわら市)出身であることは殆ど知られていない。未読の福井人には必読の短編であるし、非常に強力な観光資源として活用すべきと思う。

いまさらながら、国と国の交流は首脳同士の会談というより、こうした人と人の心温まる交流が基本。中国人留学生や観光客が増えている昨今だが、どのように接するべきかを藤野先生は改めて示唆している。

調べたら先生(旧福井中卒)は私の学校先輩だった。背筋が自然と伸びてくる。

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藤野厳九郎記念館
http://www.city.awara.lg.jp/…/72…/kankoshisetsu/p000263.html

福楽
http://fukui-fukuraku.com/

わかりやすい動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=YupfPd-yAvE

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インバウンド対応は脳を若くする

先週、永平寺町観光物産協会にて訪日インバウンド対応(キャッシュレス含む)についてお話させていただいた。ご清聴に感謝です!

外国語・外国人・スマホ・ソーシャルネットなど、よく分からないものに接することが脳に良い=ボケないと言ってきました(汗)

「ボケ防止にインバウンドを」 (^O^)/
少し踏み込みすぎたかもしれない(謝)

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久方ぶりに「男の作法」を読んだ

面白い。だが、池波翁の美意識をそのまま飲み込んだ25歳頃と読後感が違う。私の意見と少し違うかな、と思える箇所が生まれたということだ。

100%、翁に合わせる必要はない。美意識の基準は一つではなく、自分なりの「かっこ良さ」「かっこ悪さ」の基準を持つことが大事だと思う年になったということに気付く読後だった。

もちろん未読の男性には一読を勧めたい。

男の作法

大志を抱け、この老いぼれのように

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141年前の今日(4/16)、クラーク博士は見送ってくれた学生達を振り返りながら、声高く「Boys, be ambitious like this old man(諸君、大志を抱け、この老いぼれのように)」と叫んだらしい。映画「シェーン」の最終シーンみたいなかっこよさが目に浮かぶ(笑)

ご存知の通り、札幌農学校初代教頭となって植物学の教鞭をとった彼は、意外なことに、植物学者としては決して優秀ではなかったそうだ。しかし、「学問への興味を引き出す」ことがすばらしく上手だったと伝えられている。

私の小学生時代の恩師小森先生も同じように、学問の面白さを教えるのが上手だった。加えて、自分で考え自分の言葉で答えを言わないと鉄拳を飛ばすという非常に個性的な先生だった。私は小森先生のそういう考え方が好きで、非常に大きな影響を受けた。

私の机上にはクラーク博士の小さなミニ肖像が飾ってある(笑)。何歳になっても「大志を抱け」を胸に、また、二人の先生を見習って、自分の頭で考えること、好奇心・興味を引き出すのが上手な人間になれたらと思う。

若い新卒社員が入るたびに思う

まず、「プロ」の世界に飛び込んだと認識すること、一人前になること、技能を身に付けて人様の役に立つこと、を目標にひたすら向上してほしい。

どんな大不況になろうと、食いっぱぐれのない、力強くたくましい人間になってほしい。

いざ組織がつぶれたり、組織から放り出されたり、定年になって退職しても、直ぐに自分や家族の食い扶持ぐらいは稼ぎ出す人になってほしい。

もし他の業界や他の会社に転職したとしても十分にプロとして通用する人になってほしい。

こうした積極性をもって仕事に臨むことこそ、大地に根を下ろしたような自信と力強さを生み、愛する人や家族を守る源だと思う。

偉そうなことを言ってしまった(汗)

私も、より沢山の人に喜んでもらえるよう、生涯勉強し向上していきたい。一緒に学んでいこう。

人の行く 裏に道あり 花の山

涙を流してまで感謝されるような仕事、してみたいと思いませんか? YES?

本当に喜ばれる仕事って、誰もやりたがらない、急ぎで面倒くさくて危なくて汚くて、でもやっぱり必要で大切な仕事のことなんだよって。それって大企業はできなくて、中小企業こそができるんだよって。胸にささる。


自分を磨く「嫌われ仕事」の法則

あるレストランのシェフ

あるレストランのシェフの話を読んだ。すばらしいと思った。

一人で厨房で仕事をしている間は、ずっと集中し続けなければなりません。一時も気を許すことができない作業が続きます。

でも、毎日それができるのは、はっきりとした理由があるからです。

それは、今作っている料理を召し上がっているお客様の笑顔が見えるんです。

そして、そのお客様が家に帰って、家族に今日の料理の自慢話をしてくださっている姿も見えます。

さらに、その話を聞いた家族が『私も連れてってほしい!』と言っている姿も目に浮かびます。

そして、その家族が友人に電話をして、一緒に私のレストランに来る約束をしている姿も見えます。

そして、友達をたくさん連れて、お店にみんなが笑顔でやってきてくださる姿が見えるのです。

すべて、ただの妄想かもしれませんけどね。でも、そう思うと、今やっていることから、手を抜くことができなくなるんですよ。

ところが、無意識で仕事をしている時は、そのイメージが消えてしまっています。そんな時は、仕事に集中し続けることはできません。

どのように一回塩を振るかで、お店の未来、地域の未来、自分の未来が変わる、という感覚が必要なんです。

すべての仕事に通じると思う。仕事に意味を与えているのは自分だと思う。つまらない仕事かどうかを決めているのは他の誰でもなく自分だと思う。

Chef Preparing Meal for Family

魂というのは本当にあるのかも・・

人は死なない-ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索-
人は死なない-ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索-

最近、友人知人のご家族が相次いで亡くなり、「死」について考えさせられています。

同著者は宗教家ではありません。東大医学部の先生として、臨床医として、多くの生死に間近に接してきて、科学的には説明が付かない数多くの不思議な体験談を通じて、「魂」というものについて考察しています。

不思議です。同著を読んでいると、「魂」というものが肉体という着ぐるみを着ているのかもしれない、ゆえに、肉体の死はあっても、魂は死なない、という気がしてきます。