泥かぶらの三つめの約束。「何か私にできることはありませんか」

書棚の一角に、時々引っ張り出しては読み返す絵本がある。『泥かぶら』である。

子ども向けの本を読み返すのは気恥ずかしい。ただこの一冊は、読むたびに刺さる場所が変わる。変わるのは、たぶんこちらのほうだろう。

物語はこうだ。

醜い顔のために泥かぶらと呼ばれ、石を投げられて育った少女がいる。誰からも疎まれ、自分でも自分を憎んでいた彼女の前に、ある日、老人が現れる。美しくなりたいと願う少女に、老人は三つのことを守れば必ず美しくなれると告げる。

一つ、自分をみじめだと思わないこと。 二つ、いつも笑顔でいること。 三つ、人のお手伝いをすること。

呪文でも薬でもない。少女は半信半疑のまま、とくに三つめを愚直に続ける。歳月が過ぎ、いつしか村の人々の目に、彼女は美しく映るようになっていく。

近ごろ気になるのは、この三つが同列ではないことである。

はじめの二つは、自分の内側だけで完結する。三つめだけは相手がいる。誰かのところへ出向き、声をかけ、手を動かさなければ一歩も進まない。そして三つめが、前の二つを連れてくるのではないか。

大人の日常でこれに当たるのは、たぶん「何か私にできることはありませんか」という一言である。

この問いを向けられて、人ははじめて自分が本当に困っていることを口にする。

この問いが習慣になると、目の前の人を「自分に何をしてくれる人か」ではなく「自分が何をできる相手か」として見るようになる。受け取る側から差し出す側へ、世界の見え方がひっくり返る。

歳を重ねるほど、人は「何かできることはありませんか」と問われる側になっていく。問う側でい続けるには、それなりの意識が要るらしい。書棚からこの絵本を引っ張り出すのは、たぶんその確認のためなのかもしれない。

Antique books about American history, colonial law, and congress with a colonial-era American flag, a vintage map of the eastern United States, a quill in an inkpot, a pocket watch, and handwritten letters on a wooden table.

アメリカ建国1776年の教訓:ギボンとスミスの視点

今月4日、アメリカは建国250年を迎えた。誠におめでたくお祝い申し上げたい。

今回は、同じ1776年に世に出た本二冊を採り上げようと思う。その二冊とは、同年2月に第一巻が刊行されたエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』と、その翌月に出たアダム・スミス『国富論』である。

新しい国家の誕生と、大帝国の死亡診断書と、富の理論。後世から見れば近代を形づくる三つの文書が、申し合わせたように同じ一年に、それも数カ月のうちに現れた。

歴史にはときおり、こういう符合がある。だがこれは単なる偶然の同居ではない。二冊の本はどちらも、独立宣言が突きつけた問い、すなわち「帝国はなぜ植民地を失うのか」という問いに、事件に先立って答えを書いていた。

ギボンがこの大著を思い立った瞬間については、本人が回想録に書き残している。

1764年10月、ローマを旅していた彼は、カピトリーノの丘の廃墟に腰を下ろしていた。かつてユピテルの神殿があった場所で、裸足の修道士たちが夕べの祈りを唱えるのを聞いたとき、この都の衰亡を書こうという着想が降りてきたのだという。

彼の答えは、今なお新しい。ローマは一撃で滅んだのではない。帝国は自らの過剰な大きさという重みに、内側から少しずつ耐えられなくなっていった。衰亡とは事件ではなく過程である。そして過程であるがゆえに、その内側にいる者の目には映らない。

一方のスミスは、同じ問いを台帳の側から解いた。

『国富論』といえばピン工場の分業や「見えざる手」が引かれるのが常だが、この書物の終盤には、植民地を論じた長大な章がある。そこでスミスは、母国の重商主義的な独占が帝国自身にとって割に合わない事業であることを、費用と便益から冷静に算定してみせた。

植民地が帝国の経費を負担しないのであれば、英国はむしろ自らこれを手放すべきである。大西洋帝国の構想は帝国そのものではなく、帝国という夢にすぎない。そう言い切ってのける経済学者が、開戦の年のロンドンにいたのである。

政治家たちが帝国の威信を語っているときに、帳簿を見よと言った。この胆力には、二百五十年を経ても敬服するほかない。

なお、興味深いことに、この二人は互いを知る仲であった。

ともにロンドンの文人サークル、サミュエル・ジョンソンやエドマンド・バークが設立した「The Club(クラブ)」に名を連ねており、ヨーロッパ随一の都市の、ごく狭い社交の輪の中から、同じ春に、帝国への二つの診断書が生まれた。

ギボンは世紀の単位で帝国の寿命を測り、スミスは収支の単位で帝国の採算を測った。物差しは違えど、結論は響き合う。過剰に広がったものは、その広がり自体によって蝕まれる、と。

ここに一つ、皮肉な暗合がある。

ギボンは執筆のかたわら英国議会に議席を持ち、アメリカ植民地への強硬策を支持する側に票を投じていた。ローマの衰亡をあれほど鮮やかに見通した眼にも、自らが生きる帝国の亀裂は見えなかった。

スミスの帳簿にせよ、閣議を動かすには至らなかった。診断は正しくとも、患者は聞く耳を持たぬのが常である。人間の視力とはそういうものなのだろう。

建国250年のアメリカをめぐっては、今後の行方を論じる声がかまびすしい。私はここでアメリカの衰亡を予言するわけではない。歴史は繰り返さないし、ローマと現代を安易に重ねたいわけでもない。

ただ、韻は踏む。

1776年の二冊が教えてくれるのは予言ではなく、測り方。国家の健康は四半期や選挙の周期ではなく、世紀の単位と、正直な帳簿との両方で測らねば見えてこない。そして最も見えにくいのは、いつの時代も、自分が立っている足元なのだ。

英国で歴史学を学んでいた頃、かの国の書店では、ギボンもスミスも今なお普通の顔をして棚に並んでいることに感心した記憶がある。二百五十年前の書物を現役の同時代人として読み続ける社会は、それだけで一つの見識である。

独立宣言が読み上げられるこの夏、片隅で二冊の頁を繰る。それもまた、250年の祝い方の一つだと思っている。

人々の常識をひっくり返した男、レヴィ=ストロース

フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースらが提唱し、当時の世界にものすごい衝撃を与えた考え方がある。一言で言うと、「世の中のいろいろなことの裏には『見えないルール(構造)』が隠れている」という考え方である。いわゆる「構造主義」だ。

私たちは「見えないルール」に動かされている

たとえば、私たちが普段日本語を話すとき、「ここは主語だから『が』をつけて、次は動詞で…」なんていちいち文法(ルール)を意識していない。でも、無意識のうちに全員が同じルールに従っているからこそ、会話が成り立つ。

レヴィ=ストロースは、こうした「言語のルール」を研究する学問(構造言語学)にヒントを得て、「人間の社会や文化も、言葉の文法と同じように、みんなが気づいていない『無意識のルール(構造)』で動いているんじゃないか?」と考えた。

アマゾンの奥地で見つけた「驚きのルール」

彼は実際にアマゾンの奥地に行き、さまざまな原住民の生活を観察した。一見すると、彼らの生活や風習は、近代的な西洋の人間からすれば「野蛮」で「めちゃくちゃ」に見えた。

しかし、レヴィ=ストロースが彼らの文化の「奥底」をじっくり分析すると、そこには驚くべき事実があった。

たとえば、カドゥヴェオ族という部族の女性たちは、顔に複雑で迷宮のような幾何学模様を描く。一見バラバラで適当に描いているように見えるが、実はトランプの絵札のように、ものすごく計算された「対称性(バランス)」のルールに従って描かれていたのだ。また、神話や結婚のやり方などにも、まるで数学のようにきっちりとした複雑なルールが隠されていることを突き止めた。

表面上はバラバラで意味不明に見える現象の奥底には、実は「美しい法則(構造)」が隠されているのだ。

なぜ構造主義は「常識をひっくり返した」のか?

この構造主義という考え方は、主に2つの点で、当時の人々の常識をひっくり返した。

① 「我々は、見えないルールの上で踊らされているだけ」という衝撃

当時のヨーロッパでは、「人間は自分の意思で自由に考え、自分で歴史を作っていく生き物だ(実存主義)」と信じられていた。しかし構造主義は、「いやいや、人間は自分で自由に考えているつもりでも、実は自分では気づいていない『社会の見えないルール(構造)』の上で踊らされているだけだよ」と突きつけたのだ。これは当時の知識人たちに大きなショックを与えた。

② 「西洋が一番進んでいる」という思い込みをぶっ壊した

それまでは、「西洋の近代文明が進んでいて、アマゾンなどの原住民は遅れた未開の人たちだ」という偏見が当たり前だった。しかし構造主義は、「一見遅れているように見える部族の文化にも、西洋文明と同じくらい高度で複雑な『見えないルール(構造)』がしっかり存在している」ことを証明した。 つまり「どの文化が上か下かなんてない。見た目が違うだけで、人間の頭の中にある『構造』はみんな同じなんだ」ということを明らかにしたわけだ。

このメガネをかけて世界を見ると、「自分たちと違う変な人たち」と思えた相手の中にも、自分たちと同じような「隠れたルール」があることに気づき、世界をよりフラットに、深く理解できるようになるのだ。

ブラジルの奥地に「人間の最も感動的な愛」を見つけた

ブラジルの奥地に住むナンビクワラ族。彼らは服も家もなく、極限まで貧しい生活を送っている。それでも、家族で寄り添い、笑い合い、愛情深く生きている。夜になると、家族は焚き火の周りに裸で寄り添って身を寄せ合い、夫婦はお互いを労わりながらシラミを取り合ったり、冗談を言って笑い合ったりしている。また、子どもに対しては怒ったり罰を与えたりすることはめったになく、非常に深い愛情を注いで大切に育てている。

彼はそこに「人間の最も感動的な愛」を見た。 物質的な豊かさがなくても、人間の根底には確かな愛がある。その事実を知ることが、深い慰めと静かな幸福を与えてくれる。

『悲しき熱帯』 お時間あるときに読んでみてください。

Woman walking up stairs in a modern train station with escalators and people

習慣化アプリ「みんチャレ」と『自分を変える1つの習慣』で人生を変える方法

習慣化アプリの「みんチャレ」を使い始めてから、私の生活は劇的に変わった。毎日見知らぬ仲間と目標を共有し、励まし合うことで、これまで何度も挫折してきた早起きや運動、読書(積読の消化)といった習慣が驚くほど身につくようになった。

なぜ、「三日坊主」だった私が変われたのか? その根本的な理由を言語化してくれているのが、ロリー・バーデン氏の著書『自分を変える1つの習慣』(原題:TAKE THE STAIRS)。本書は、小手先のテクニックではなく、人間の行動と意志に関する本質を突く隠れた名著だ。

以下、私の体験も交えながら紹介したい。

「エスカレーター」から降り、「階段」を使え

本書のメッセージは極めてシンプル。世界中の95%の人が、街角でエスカレーターと階段が並んでいると、無意識のうちに楽な「エスカレーター」を選んでしまう。これは人生においても同じで、私たちは常に「労力をかけずに望みを叶える近道」を探し求めている。

しかし著者は、「人生の成功を保証する唯一の方法は、昔からまったく変わっていない」と断言する。それは、大切だとわかっているが「したくない」と感じていることを、あえて実行する「セルフ・コントロール(習慣の力)」を身につけること

原題「TAKE THE STAIRS」にあるように、エスカレーターという楽な道を捨て、あえてちょっとキツイが「階段」を選ぶマインドセットこそが、あらゆる成功の土台となると。

痛みを伴う「パラドックスの法則」

私たちは脳の感情や衝動に従い、つい目先の快楽を求めて物事を「先送り」してしまう。しかし、問題を避けて一時的な「楽」を得ることは、長期的には人生に深刻な困難や大きなツケをもたらす。

逆に、目先の欲求に負けず、今ここで我慢することは、将来の「自由」を買うことにつながる。階段を上るという最初は苦しい「小さな選択」の積み重ねが、長期的にはとてつもなく大きな違いを生み出すということだ。

「みんチャレ」が成功する理由

そして、私が「みんチャレ」で生活を変えられた理由のすべてが、第7章「行動」に書かれている。

私たちは「何をすべきか」はすでに知っているにもかかわらず、行動に移せないだけだと。なぜなら、「時間」が経過するとともに私たちの「意欲」は消失してしまうから。

これを打ち破るための解決策として著者が提示しているのが、「目標を『360度』で共有する」こと。自分の目標を周囲の人や仲間に宣言し、見守ってもらうことで「退路を断つ」というわけ。

この点で「みんチャレ」は、この「アカウンタビリティ(責任)」をデジタル上で擬似的に作り出すシステムである。具体的な目標を必ずしも共有していないチームも多いが、チームの仲間に行動を報告しなければならないという「ポジティブなプレッシャー」が、毎日自分のお尻を叩いてくれている、と深く納得。

成功は「借り物」である

最後に印象的な言葉を。

「成功は自分の持ち物にすることはできず、借りることしかできない。その賃貸契約は、毎日更新しなければならない」

「成功は借り物であり、毎日契約を更新しなければならないという考え方をもつことで、あなたの人生には魔法のような変化が起こります」

人生を変えるための「1つの習慣(セルフ・コントロール)」に、これで終わりというゴールはない。今日階段を上ったからといって、明日はエスカレーターに乗っていいわけではない。

しかし、その「毎日家賃を払い続ける(行動する)こと」自体が、やがて爽快感や満足感、そして本物の自信へと変わっていくということ。

「自分を変えたい」と願いながら、つい楽な道を探してしまうすべての人へ。『みんチャレ』と本書は、あなたの「三日坊主」を直し、一生ものの「行動力」を授けてくれる…かも(微笑)

Stack of hardcover books and a smartphone on a wooden desk with sunlight

なぜ誘惑に負けるのか? それには科学的な理由がある

「今日こそは絶対に勉強するぞ」と決意したのに、いざスマホを目にすると何時間も動画を見てしまう。「明日からダイエットする」と誓ったのに、目の前のケーキを我慢できない。私たちはなぜ、長期的な利益を損なうとわかっている「自滅的な行動」を繰り返してしまうのだろうか。

ジョージ・エインズリー氏による著書『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』は、古代ギリシャから「アクラシア(意志の弱さ)」と呼ばれてきたこの謎に、行動科学の視点から鮮やかな答えを出している。そのカギとなるのが「双曲割引複数の自己」という概念だ。

「双曲割引」が引き起こす価値の逆転

従来の経済学では、人間は一貫した価値基準を持ち、将来の利益を一定の割合で割り引いて評価すると考えられていた(指数割引)。しかし、実際の人間や動物の行動はそれとは異なる。著者は、私たちが将来の価値を「双曲割引」という、より深くしなった急カーブを描く曲線で割り引いていることを指摘している。

双曲割引の最大の特徴は、誘惑が遠い未来にあるうちは「長期的な大きな報酬(例:健康)」を高く評価できるのに、誘惑が手に入る直前になった瞬間、一時的な報酬(例:目の前のケーキ)の魅力が急激に跳ね上がり、好みがひっくり返ってしまう点。

つまり、私たちは、将来もらえるご褒美の価値を「もらえるまでの時間」が長ければ長いほど「小さく」見積もってしまう。そして「双曲割引」の最大の特徴は、「ご褒美(誘惑)が目の前に近づいてきた瞬間、急激にその魅力が何倍にも跳ね上がる」という点。

あなたが誘惑に負けるのは気合いが足りないからではなく、この「選好の逆転」つまり好みがひっくり返るという抗いがたい脳のメカニズムがあるからなのだ。

私たちの心は「複数の自己」の議会場

この双曲割引のメカニズムは、私たちの人間観を覆す。私たちは自分自身を「一貫した目的を持つ単一の存在」だと思いがちだが、実際はそうではない。時間帯によって求める報酬が変わってしまうため、人間の内部には「結論のちがう評価者」が次々と入れ替わり立ち替わり登場している

つまり、心の中に、

「将来のために頑張りたいマジメな自分」
「今すぐ目の前の快楽を楽しみたい自分

という2人が住んでいて、時間帯や状況によって主導権がコロコロ入れ替わりながら、どうするかを決めるのに内部抗争を繰り広げているというわけだ。

自分自身との戦略的ゲーム

それでは、私たちは一生、目先の誘惑に敗れ続ける運命なのだろうか?

本書では、この複数の自己による争いを乗り越えるための手段も書かれている。賢い人は、将来の自分が誘惑に負けて計画を裏切ることを予測し、それを阻止するための戦略を立てる。

つまり自分の行動に「個人的なルール」を設けるなど、現在と未来の自分自身とで「異時点間の交渉」を行うことで、一時的な衝動に対抗しようとするわけだ。

簡単に言うと、「未来の自分が誘惑に負けること」をあらかじめ予測して、先回りして作戦を立てるということ。たとえば…

・家に帰ったら、スマホをリビングの親に預ける
・テレビやゲームがない図書館に行って勉強する

このように、「目の前に誘惑が来ないようにする(跳ね上がる前に遠ざける)」ことが、双曲割引と上手く付き合い、目標を達成するための最大のコツだと言えよう。


本書は、「気合い」や「根性」で誘惑に打ち勝つことを説くものではない。その代わり、人間が生まれつき抱えている「双曲割引」というバグと、心の中にひしめく「複数の自己」の存在を、科学的かつ論理的に解き明かしてくれる。

人間の不合理さをえぐるテーマでありながら、日常的な例や思考実験を通じて、自滅的行動のメカニズムを納得させてくれる。自分の「意志の弱さ」の正体を客観的なシステムとして知ることは、誘惑と上手く付き合い、より良い選択をしていくための最大の武器となるはず。

行動経済学や心理学に興味がある方はもちろん、悪習慣を断ち切りたいと願う人にとって、人間理解の次元を一段階引き上げてくれる隠れた名著だ。

World map continents with cracked, dry earth texture floating above dark ocean

世界はなぜ、これほどまでに混乱と対立に満ちているのか? キッシンジャーが解く国際関係

現代の世界はなぜ、これほどまでに混乱と対立に満ちているのだろうか。その根本的な問いに対し、現実主義外交の巨星ヘンリー・キッシンジャーが『国際秩序』にて圧倒的な歴史的知見と地政学的スケールで答えている。

私たちが現在「当たり前」とみなしている「主権国家の平等」や「力の均衡」に基づく国際ルールは、実は17世紀のヨーロッパ(ヴェストファーレン条約)で生まれた局地的な概念にすぎない。本書の真髄は、この欧米主導のシステムが、異なる歴史と文化を持つ地域と激しく衝突し、機能不全に陥りつつある現代世界の構造を浮き彫りにした点にある。

キッシンジャーは各地域の独自の「秩序観(正統性)」を冷徹に分析している。

・自らを世界の中心とする「天下」の概念を持ち、ヨーロッパ的な対等の関係とは異なるヒエラルキー的秩序を志向する中国
・ヨーロッパ列強が引いた人為的な国境線と主権国家体制を拒絶し、宗教的統一を目指すことで国家崩壊とテロの温床(無秩序)となっている中東・イスラム世界
・世界秩序の維持を自任しながらも、自国の「民主主義や人権」という普遍的価値観を広めようとする「理想主義」と、地政学的な力の計算に基づく「現実主義」の間で常に葛藤を抱える米国

こうした姿を克明に述べながら、さらに、核兵器の拡散やサイバー空間の登場といったテクノロジーの急激な進化が、従来の「武力による均衡と抑止」を無効化し、人間による制御を困難にしている現代特有の危機にも斬り込んでいる。

キッシンジャーが最後に突きつけるのは、「ひとつの普遍的なルールで世界を統一することは不可能である」という現実だ。破局を回避するためには、自国の価値観の押し付け合いをやめ、各国の多様な「正統性」を理解・尊重しながら、絶え間ない対話によって新たな「力と正統性のバランス」を構築し直すしかない。

米中対立の激化や中東の果てしない紛争など、日々のニュースの背後で起きている「パラダイムの衝突」の正体を知りたい方にとって、本書はこれ以上ないテキスト。世界情勢の全体像を俯瞰し考えるための「羅針盤」として、あらゆる方に推薦したい。

Colosseum ruins in Rome at sunset with orange and purple sky

なぜローマ帝国は崩壊したのか?

永遠の都はいかにして崩れ去ったのか?

イギリスの歴史家エドワード・ギボンが著した『ローマ帝国衰亡史』は、小さな都市国家から出発したローマが、いかにして地中海世界を覆う大帝国となり、そしてなぜ崩壊という運命を辿ったのかを描き出す、壮大なスケールの歴史ドラマだ。

栄華の頂点から落日までの壮大な軌跡

本書の魅力は、二千年以上前に繰り広げられた人間たちの熱い群像劇。「ローマは一日にしてならず」という言葉通り、ロムルスとレムスの建国神話に始まり、カルタゴの将軍ハンニバルとの国家の存亡を懸けた死闘(ポエニ戦争)、そして英雄カエサルの活躍と暗殺、初代皇帝アウグストゥスによる帝政の樹立へと展開、その後「五賢帝」の時代に、ローマ帝国は人類史上稀に見る平和と繁栄を謳歌するが、物語の真骨頂はここから。

軍人皇帝時代の混乱、キリスト教の迫害から公認への転換、コンスタンティヌス大帝による遷都、そして怒涛のゲルマン民族の大移動によって、かつて栄華を極めた西ローマ帝国が音を立てて崩れ去るまでの一連の過程が、劇的に綴られている。

なぜ大帝国は滅びたのか?― ギボンが突きつける衰亡の理由

最大の読みどころは、圧倒的な軍事力と高度な文明を誇ったローマが滅びた「根本原因」に対する、ギボンの鋭い考察だ。彼は、帝国崩壊の原因を単なる外部からの侵略(ゲルマン人の大移動など)だけには求めなかった。ギボンは、ローマの真の敗因は「帝国内部のいきすぎた文明の進歩、ぜいたく、それにともなう、退廃」にあると。

繁栄の中で人々が享楽にふけり、国を支える「真剣な態度」や「真の勇気」を失ってしまったこと、さらに新興のキリスト教がローマ古来の伝統や精神を弱めたことなどが、帝国を内部から蝕んでいったと論じている。

現代人への力強いメッセージ

歴史好きな方はもちろん、すべての人に強くおすすめしたい。どんなに強大で豊かな国家や文明であっても、内部の油断や道徳の退廃によって脆くも崩れ去るという歴史の法則は、現代社会やビジネス、組織のあり方にも通じる普遍的な教訓だと思う。

「永遠の都」と呼ばれたローマの光と影を通じて、人間の本質とは何か、そして社会を支える真の力とは何か、を考えさせられる、極上の知的体験となるはず。ぜひ手に取っていただきたい。

Sunrise shining over rolling hills with mist and scattered trees

成功の多くは実力ではなく、単なる運だ

成功の多くは実力ではなく、単なる運だと思え

ナシーム・ニコラス・タレブの『まぐれ』を読了。投資家や事業家が直視したくない残酷な真実、つまり「成功の多くは実力ではなく、単なる運」という事実をこれでもかこれでもかと突きつけてくる。ページをめくるたびに、過去の自分の愚かさを指摘されているようで、耳が痛かったがこれは良書。

思い返せば、私の起業が失敗せずに済んだのは「運もあるが努力のおかげでもある」とすっかり思っていた。しかし、本書の「ロシアン・ルーレット」の比喩を読んで、たまたま運良く「最悪の事態」が起きなかっただけの結果にすぎなかったのではないか。今はそう思える。

私たちはなぜか、成功した時は「自分の実力」だと言い張り、失敗した時だけ「運が悪かった」と言い訳をする。そんな都合の良い思考回路を持った生き物なのだ。

世の中の「成功法則」がいかにデタラメであるか

私はこれまで「勝者」には共通するコツやルールのようなものがあると思っていたが、すべて「たまたま生き残った勝者」だけを見た「生存バイアス」に過ぎなかった。

冷静に考えればたしかにそうだ。「勝者」の影には、同じように努力してリスクを取りながらも、不運によって破滅していった無数の「敗者」たちがいる。結果が出た後からなら、どんなことにでももっともらしい理由(因果関係)をつけることができるのだという本書の指摘は、私の考え方を完全にひっくり返した。

人間の脳は生来、確率を正しく理解できず、すぐにもっともらしい物語(迷信)に騙されるようにできている。だからこそ、特に投資については、自分の感情を排除し、「想定外の事態(=黒い白鳥)」が必ず起きることを前提とした厳格なルール(ストップロスの徹底など)で自分を縛らなければならない。

人生や市場を支配する「まぐれ(運命)」を、私たちが完全にコントロールすることはできない。古代ギリシャの賢人ソロンが言うように、最後まで何が起きるかは誰にもわからない。

理不尽な不運に見舞われたとき、それにどう立ち向かうか

ただし、何が起きても「振る舞いの美しさ(品格)」だけは、自分自身で決められる。運命の不確実さを謙虚に受け入れ、驕らず、しかし尊厳をもって生きる、それが、本書の最大の肝だろう。

Ancient warships engaged in a fierce naval battle on the sea with soldiers fighting aboard.

圧倒的な軍事力を誇るペルシア帝国に対し、なぜ小国ギリシアが勝利できたのか?

ヘロドトスの「歴史」はエンターテインメント

本書「歴史」を読むうえで最も重要なのは「正確な歴史書」として読もうとしないこと。著者自身、旅行で見聞きした伝承や噂、神話などを多く盛り込んでおり、本作はフィクションや「物語」としての性質を持っている。

年代記のように事実を追うのではなく、まるで神話や童話、あるいは壮大な歴史ロマン小説を読むような気持ちで、古代の地中海世界やオリエントをめぐる「旅行記」「風土記」を読む気持ちで、神託と運命に翻弄される「人間ドラマ」を味わう気持ちで読むのが、本書を楽しむ秘訣かと思う。

途中、人間の力ではどうにもならない「神の意志(神託)」や「運命」が幾度も登場し、英雄や王たちを翻弄する。

たとえば、巨万の富を誇るリディア王クロイソスに対し、賢者ソロンが「人間は死ぬときを見るまで、幸福であるかはわからない(人間の運命は気まぐれである)」と述べるエピソードは非常に象徴的で、その後、クロイソスは神託を都合よく解釈してペルシアに戦争を仕掛け、結果的に自らの帝国を滅ぼしてしまう。

絶対的な権力を持った王でさえも運命を逃れられないという、哀愁と深い人間観察が面白さを加えている。

「ペルシアの専制政治」対「ギリシアの自由と民主制」という大構図

物語のクライマックスとしてペルシア戦争が登場するが、単なる領土争いではない。ヘロドトスはこの戦争を、ひとりの大王がすべてを支配する「ペルシアの専制政治」と、市民たちが自ら国を治める「ギリシアの民主政治」との激突として描いている。

圧倒的な軍事力を誇る巨大な専制帝国に対し、なぜ取るに足らない小国ギリシアが勝利できたのか

それは、ギリシア人が「自由」を深く愛し、それを守り抜くために団結して戦ったから、というギリシア人からの視点ではあるものの、マラトンの戦いからサラミスの海戦へと至るギリシア人たちの決死の奮闘は、まさに「自由と民主主義の勝利」を描いた熱いドラマである。

人間の愚かさや気高さ、運命の不思議さ、そして「自由」の尊さを生き生きと描き出した時代劇。

登場人物名や地名が多すぎて参るが(苦笑)、日本なら神武天皇の頃から百年後の頃、二千五百年以上の時を超えて当時の人々の躍動感を感じ取ることができるはず。

Sunset view of the Roman Forum ruins with the Colosseum illuminated in the background

自分の弱さと向き合い続けた青年の記録

アウグスティヌス(354年 – 430年)は、古代ローマ末期の北アフリカに生まれた思想家である。異教徒の父と、熱心なキリスト教徒の母の間に生まれ、若き日は弁論術を学びながら、かなり奔放な生活を送っていた。その過程で「マニ教」に入信するなど、思想的にも人生的にも迷い続けた人物である。

そんな彼が最終的にキリスト教の司教となり、西洋思想に大きな影響を与える存在になるまでの葛藤をつづったのが『告白』である。

本書で最も印象に残ったのは、この本がいわゆる「完成された聖人の立派な物語」などではないということ。むしろ、「なぜ自分はこんなに弱いのか」「なぜわかっているのに正しく生きられないのか」という自己矛盾と戦う、一人の青年の生々しいドキュメンタリーであったということ。

若い頃の彼がマニ教に惹かれたのは、「世界は光と闇の戦いであり、自分の失敗は闇の力のせいだ」と責任を外部に転嫁できたからではないか。しかし彼は、そうしたわかりやすい答えに満足できなかった。

やがて「悪とは何か」という問いに対して、悪とは実体として存在するのではなく、「善が欠けている状態」に過ぎないという考えに辿り着く。そして、献身的な母の影響を受けながら、最終的にはキリスト教の信仰へと向かっていく。

「反省」が「感謝」に変わる

タイトルの『告白(Confessiones)』という言葉には二重の意味がある。「懺悔」と「(愛の)告白」だ。彼は単に過去の過ちを振り返りながら、ただ後悔し反省しているわけではない。「自分の意志さえ思い通りにできない弱い自分が、それでも何かの大きな力に支えられ、ここまで導かれてきた」ということに、深い感謝と神への愛を見出していた。この「弱さの肯定」こそが、本書の核心だと思う。

晩年の彼は、永遠の都と呼ばれたローマが異民族に襲われるという、まさに「文明の崩壊」を目の当たりにする。その中で提示された『神の国』という考え方は、目に見える国家や組織が壊れたとしても、自分が何を愛し、何を信じるかという軸さえあれば、人は絶望せずに生きていける、というメッセージにも読める。

1600年も前の本でありながら、そこにある問いは驚くほど現代的である。

「自分は何者なのか」
「どうすれば正しく生きられるのか」
「なぜ分かっているのに、思うように生きられないのか」


そうした問いに対して、彼はきれいごとではなく、泥臭く悩みに悩み抜いた。そして、ようやく自分なりの「納得」にたどり着こうとした。

『告白』は、偉大な聖職者の難しい本というより、自分の弱さや矛盾に真剣に向き合った、一人の青年のドキュメンタリーとして読むと、とても面白い本である。

懐かしい英語参考書の思い出

過日、実家の隅に眠る高校時代の英語参考書を見つけ、懐かしい思い出に心が震えた。 ”We had a lot of snow last year.”から始まる「英語の構文150」。そこには数え切れないほどのアンダーラインや書き込みが残されている。

そういえば、試験日の通学途上、田んぼ道を自転車で走りながら二宮金次郎ばりに読んでいた。今となっては無謀で危険だった(苦笑)

でもそんな時代があったからこそ、後日私は英国留学を果たすことができた。抱きしめて感謝だ。

ちなみに、Amazonでこの中古本が送料込み約4000円。でも、売らない(売れない(笑))し、他人の本には価値を感じない。私にとっては、自分の書き込みが詰まったこの本がかけがえのない宝物。皆さんにもそんな本があるはず。

福井の将来は絶対に明るい

「福井の将来は絶対に明るい5つの理由」

というタイトルで、文化、歴史、海外ネットワーク、起業マインド、物流という5つの観点から、福井の未来について拙い意見を自由に述べてみた。

邪馬台国=越前説にも軽く触れたので(笑)機会があれば笑覧いただきたく。福井の将来は明るいよ! (^O^)/

『福井の幸福を語ろう』(東京若越クラブ/福井新聞社)
https://amzn.to/2N5f5kK

 

20190919_110722

久方ぶりに「男の作法」を読んだ

面白い。だが、池波翁の美意識をそのまま飲み込んだ25歳頃と読後感が違う。私の意見と少し違うかな、と思える箇所が生まれたということだ。

100%、翁に合わせる必要はない。美意識の基準は一つではなく、自分なりの「かっこ良さ」「かっこ悪さ」の基準を持つことが大事だと思う年になったということに気付く読後だった。

もちろん未読の男性には一読を勧めたい。

男の作法

「正確に話すこと」と「わかりやすく話すこと」はなかなか両立しない

「正確に話すこと」と「わかりやすく話すこと」はなかなか両立しない。宗教関連の本を読むたび、そう思う。宗教に携わる人はいい加減なことは言いたくない、真面目な人ほどなるべく正確に話そうとする。しかし、そうすればするほど、わかりにくくなる。

当時、浄土宗・浄土真宗が画期的だったのは、誰だって死ぬのは怖い、でも「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽に行けますよ、なぜなら、仏さま(阿弥陀仏)は悪い人も含めてすべての人を幸せにしてあげよう、極楽に行かせてあげようとされているんだから、自力で幸せになろう、極楽に行こうというこざかしい考えは捨てて、仏さまの大きな力に身を任せればいいんです。それには「南無阿弥陀仏」という言葉だけでOK。万巻のお経を凝縮すると結局この「南無阿弥陀仏」の6文字になるんですから。ちなみに、阿弥陀仏はお釈迦様の大先生。大宇宙の一番の先生ですよ、と大衆にわかりやすく伝えたことだと思う。

本書は比較的わかりやすい書籍だと思うが、理解できない部分も多く、おかげで真宗を考える良いきっかけに。上記は本書のまとめではない。正確ではないかもしれないが、真宗を短く言うとこういうことかなと自分用にメモ。感謝。南無。


ポケット 親鸞の教え

橋本左内先生が偉人伝に

幼い頃、左内公園(福井市)でよく遊んだ。すぐそばの保育園で育ったからだ。当時は「左内」が何を意味するのか、公園内の銅像が誰なのか、何も知らなかった。

「いずれ世界には国際連盟のようなものができる。その中心になるのは英か露だ。厳しい国際社会を日本が生き抜くには、開国をしてどちらかの国といずれ同盟を結ばねばならない」と、日英同盟や国際連盟設立の約60年前、江戸幕末期に明確に見通していたのはおそらく日本中でも橋本左内先生だけではあるまいか。改めて先生の偉大さを思う。

今回、母校・藤島高校の後輩達が、「コミック版日本の歴史・幕末維新偉人伝」に左内先生(先輩)を加えて寄贈するプロジェクトを成功させた。実に素晴らしくて感動!

2016-11-18-12-25-42
「幕末維新偉人伝 橋本左内(コミック版日本の歴史)」
http://amzn.to/2fnotvK

第四代東京府知事・由利公正

都知事選がまもなく始まるが、第四代東京府知事はわがふるさと越前藩士・由利公正。

彼は、廃墟となった大名屋敷に盗賊が住みつかないように三千人の警官を置いて治安回復に努め、東京を燃えない街にするために、銀座をレンガ街にし道幅を広げ歩道を作りガス燈を設置、現在の銀座の景観を作った。郷土の誇りだ。


幕末・維新人物伝 由利公正

人の行く 裏に道あり 花の山

涙を流してまで感謝されるような仕事、してみたいと思いませんか? YES?

本当に喜ばれる仕事って、誰もやりたがらない、急ぎで面倒くさくて危なくて汚くて、でもやっぱり必要で大切な仕事のことなんだよって。それって大企業はできなくて、中小企業こそができるんだよって。胸にささる。


自分を磨く「嫌われ仕事」の法則

今さら何故JFK?

先日出版させていただいた「キャロライン・ケネディの決意」に続き、ジョン・F・ケネディ元米大統領について出版させていただきました!

「今さら何故JFK?」と思うかもしれません。

しかし、1963年11月22日の暗殺からちょうど50年という節目の2013年11月に長女のキャロライン・ケネディさんが駐日大使になります。

彼女がお父様からどのような影響を受けているのか、日中間がきな臭くなっている今、核戦争の一歩手前までいったキューバ危機にケネディ大統領がどう苦悩し立ち向かったのかについて、この機会に改めて日本は知っておく必要があると強く思っています。

Kindle版で日英対訳なので英語の勉強にもなります。 ぜひダウンロードください。

ジョン・F・ケネディ 大統領就任演説・キューバ危機テレビ演説【全文】 [Kindle版]
ジョン・F・ケネディ 大統領就任演説・キューバ危機テレビ演説【全文】 [Kindle版]