Crowd of fans in blue jerseys celebrating at a busy Tokyo intersection at night.

W杯:渋谷のスクランブル交差点でハイタッチする理由

「ワールドカップ」熱狂の裏側に何があるのか?
文化人類学の視点から

普段の満員電車を思い出してほしい。隣の人と肩が少し触れただけでも、「チッ」と舌打ちが聞こえてきそうな、冷たくピリピリとした空気がある。

日本社会は、会社や学校といった同じ「場」を共有する身内、すなわち「ウチ」には優しい反面、見知らぬ人、すなわち「ヨソ者」に対しては非常に排他的で冷たい傾向がある。

ところが、ワールドカップで日本代表が歴史的勝利を収めた時はどうだろう。渋谷のスクランブル交差点には青いユニフォームを着た人々が殺到し、普段なら絶対に目を合わせないような若者、サラリーマン、ギャル、外国人までもが、満面の笑みで見知らぬ者同士ハイタッチをし、抱き合っている。

この「魔法のような現象」は、単なるお祭り騒ぎや若者の悪ノリなのだろうか。そうではない。文化人類学の視点から見ると、これは現代人が無意識に行っている「巨大な儀礼」であることが見えてくる。

日常を脱ぎ捨てる「3つのステップ」

人類学者ファン・ヘネップは、世界中のさまざまな儀礼、たとえば成人式や結婚式などを分析し、それらが〈分離〉〈過渡〉〈統合〉という3つの局面から成り立っていることを見出した。実は、渋谷での熱狂もこのプロセスに見事に重ね合わせることができる。

① 〈分離〉:青いユニフォームは「変身アイテム」

最初の〈分離〉とは、日常から切り離される段階である。試合当日、トイレでこっそりスーツを脱ぎ、日本代表のユニフォームに着替え、頬に日の丸のフェイスペイントをした瞬間、人はどうなるか。その人は「〇〇会社の課長」や「〇〇大学の学生」といった日常の肩書きから切り離される。あの青いユニフォームは、日常のしがらみを脱ぎ捨てるための「儀礼の衣装」なのである。

② 〈過渡(リミナリティ)〉:地位が消滅する「空白地帯」

次にやってくるのが〈過渡〉の局面である。人類学者ヴィクター・ターナーは、この「日常から切り離された、どっちつかずの境界状態」を「リミナリティ(境界状況)」と呼んだ。試合終了のホイッスルとともに、スクランブル交差点という巨大な「リミナリティ空間」が現出する。そこは、「赤信号で止まる」「他人にむやみに話しかけない」といった日常のルールが一時的に無効化される、特別な空間である。

究極の連帯感「コミュニタス」の爆発

このリミナリティ空間で何が起きるのか。ターナーによれば、この状態に置かれた人々からは、あらゆる地位や身分が剥ぎ取られ、そこに「絶対的な平等意識」や「仲間意識」が生まれる。ターナーはこれを「コミュニタス」と名付けた。

これこそが、ハイタッチの正体である。普段は「ウチ」と「ヨソ」を厳格に分ける私たちも、青いユニフォームという「共通の象徴」を身にまとい、スクランブル交差点という非日常空間に放り込まれた瞬間、そこにいる数千人の「ヨソ者」を、すべて「日本代表を応援する仲間」、すなわち「ウチ」へと反転させる。

そこには上司も部下も、金持ちも貧乏もない。日常の息苦しい属性から解放された究極の「コミュニタス(連帯感)」の中で、私たちは嬉しくてたまらず、見知らぬ誰かにハイタッチを求めてしまうのである。

③ 〈統合〉:祭りのあと、再び日常へ

そして、儀礼の最後は〈統合〉である。夜が明け、始発の電車に乗る頃にはフェイスペイントを洗い落とし、再びスーツや私服に着替えて、人々はそれぞれの「日常の秩序」へと帰っていく。

ワールドカップは「ガス抜き」装置

文化人類学の視点から見れば、渋谷のスクランブル交差点は、地位や肩書き、見えない同調圧力に縛られて生きる現代人が、すべてを忘れて「コミュニタス」の熱狂に浸るための、壮大な「ガス抜きの場」といえる。

次にワールドカップでハイタッチのニュースを見かけたら、「現代の儀礼が機能し、強烈なコミュニタスが発生しているのだ」と考えてみるとよい。少しだけ、世界の見え方が変わるはず(笑)