Riverside village with church steeple at sunset under dramatic cloudy sky

大丈夫、心配するな、なんとかなる

一休禅師が遺した言葉と伝えられています。臨終の際、弟子たちに「どうにもならないときに開けよ」と手紙を託した。後年、どうにもならない事態に直面した弟子たちが開いてみると、そこにはこう書かれていたといいます。

大丈夫、心配するな、なんとかなる。

拍子抜けするほど、何の解決策も示していません。けれど、どうにもならないときに本当に必要なのは、解決策ではないのかもしれない。そのことを、この禅僧は見抜いていたのだと思います。

被災された皆さま。停電と暑さの中、眠れぬ夜を過ごされていることと思います。今は、先のことなど考えられないでしょう。考えなくていいのだと思います。

どうかご無事で。水を飲んで、少しでも横になってください。

想定外の災害に備えるために

熊本で最大震度7の地震が発生した。被害の詳細が明らかになるにつれ、東日本大震災で「釜石の奇跡」を生んだ片田敏孝氏の避難三原則をあらためて。

「想定にとらわれるな」
ハザードマップや過去の経験を超える事態は、いつでも起こり得る

「その状況下において最善を尽くせ」
揺れが収まった瞬間から、できる限りの行動を積み重ねるしかない。

「率先避難者たれ」
自分が一歩動くことで、周囲の命も連鎖的に守られる。

想定外の災害は、私たちの想像を軽々と超えてくる。だからこそ、日頃からこの三原則を心に刻んでおかないと。今回の地震が、その教訓を静かに、しかし確かに突きつけている。

熊本の大地震に寄せて

昨日、熊本県で最大震度7の地震が発生いたしました。被害に遭われた皆さまに心よりお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を表します。

熊本に暮らす方々にとっては、十年前(平成二十八年)の熊本地震に続く、二度目の大きな揺れとなりました。ようやく日常を取り戻された矢先の出来事で、被災された方々の心中を思うと言葉が見つかりません。

加えて、この猛暑の最中の停電です。県内では四万五千戸を超える世帯で電気が止まったと伝えられています。冷房も、冷蔵庫も、扇風機も使えない夜が、どれほど過酷なものか。一日も早い復旧と、皆さまのご無事を願うばかりです。

そして、今、日本のどこにいても、いつ大きな揺れに見舞われるか分からない時代。安全な場所など、この国のどこにもありません。

「まさか」は、必ず来ます。連絡手段も、事業継続の手順も、今日この日に見直しておきたいと思います。

被災地の一日も早い復旧を、心よりお祈り申し上げます。

Woman writing in journal at wooden desk by window during sunset

変わっていい、という東野圭吾さんの遺言

東野圭吾さんが亡くなった。六十八歳。訃報が伝えられたのは昨日である。

コロコロ意見や考えを変えるのは自分の得意技だ、と彼は言った。意見を変えたら恥だとか、一旦ああ言ってしまったから引っ込みがつかないなどと思っていないか、と。いくらでも変えて構わない。人の意見を聞いて、人間は変わったほうがドラマチックだ。肩の力を抜いて、どんどん変化して生きていこう。

軽やかな言葉である。だが、これを言うには胆力が要る。

歳を重ねるほど、人は変われなくなる。守るべき立場ができ、これまで言ってきたことの一貫性が気になり、前言を撤回する場面が減っていく。変わらないことを、信念と呼び替えるようにもなる。私にも覚えがある。

エンジニアとして働きながら小説を書き始め、四十年で百六冊を残した人である。書くたびに作風を変え、同じ場所に留まらなかった。得意技である変化をし続けたからこそ、あれだけの物語が出てきたのだろう。

意見を変えるのは、負けたことではない。人の話を聞いた、ということである。そう思えば、少し楽になる。今日から少し、肩の力を抜こうと思う。

ご冥福をお祈りします。

※画像:読売オンライン https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/articles/20231206-OYT8T50145/

泥かぶらの三つめの約束。「何か私にできることはありませんか」

書棚の一角に、時々引っ張り出しては読み返す絵本がある。『泥かぶら』である。

子ども向けの本を読み返すのは気恥ずかしい。ただこの一冊は、読むたびに刺さる場所が変わる。変わるのは、たぶんこちらのほうだろう。

物語はこうだ。

醜い顔のために泥かぶらと呼ばれ、石を投げられて育った少女がいる。誰からも疎まれ、自分でも自分を憎んでいた彼女の前に、ある日、老人が現れる。美しくなりたいと願う少女に、老人は三つのことを守れば必ず美しくなれると告げる。

一つ、自分をみじめだと思わないこと。 二つ、いつも笑顔でいること。 三つ、人のお手伝いをすること。

呪文でも薬でもない。少女は半信半疑のまま、とくに三つめを愚直に続ける。歳月が過ぎ、いつしか村の人々の目に、彼女は美しく映るようになっていく。

近ごろ気になるのは、この三つが同列ではないことである。

はじめの二つは、自分の内側だけで完結する。三つめだけは相手がいる。誰かのところへ出向き、声をかけ、手を動かさなければ一歩も進まない。そして三つめが、前の二つを連れてくるのではないか。

大人の日常でこれに当たるのは、たぶん「何か私にできることはありませんか」という一言である。

この問いを向けられて、人ははじめて自分が本当に困っていることを口にする。

この問いが習慣になると、目の前の人を「自分に何をしてくれる人か」ではなく「自分が何をできる相手か」として見るようになる。受け取る側から差し出す側へ、世界の見え方がひっくり返る。

歳を重ねるほど、人は「何かできることはありませんか」と問われる側になっていく。問う側でい続けるには、それなりの意識が要るらしい。書棚からこの絵本を引っ張り出すのは、たぶんその確認のためなのかもしれない。

1ドル160円時代の洋行:何を持ち帰るのか

円が1ドル163円をつけた。39年7か月ぶりの安値だという。

中東情勢の緊迫による「有事のドル買い」が背景と説明されているが、私が心を惹かれたのは、その「39年7か月ぶり」という言葉のほうだ。

前回この水準にあったのは1986年12月。ただし当時の円は、この場所を逆向きに通り過ぎていた。プラザ合意を経て、1ドル240円から100円へと駆け上がっていく、その途中の一点である。同じ数字でも、往路と復路とではまるで意味が違う。あのとき昇り坂として通過した地点に、40年近くをかけて、今度は下りながら戻ってきた。

こうなると、外国は高い。旅行に限らない。留学、赴任、出張、外に出るという行為のすべてに、以前の1.5倍を超える値札がつく。若い人たちが海外へ出なくなったと嘆く声を聞くたび、これは気概の問題ではなく、お金の問題ではないかとも思う。

もっとも、日本人の洋行はもともと、途方もなく高いものであった。

福澤諭吉が咸臨丸で太平洋を渡ったのは万延元年、1860年である。渡航そのものが命懸けであった時代に、彼が現地で買い求めたのは、大量の書物であった。とりわけ、英華辞典である。

言葉が分からなければ何も持ち帰れないと見切った上での買い物であり、後の慶應義塾と、この国の翻訳文化の水脈は、あの一冊から始まったと言ってよい。

夏目漱石のロンドン留学は1900年からの2年間。文部省の給費生でありながら、彼は下宿を転々とし、食費を切り詰めた。切り詰めた分で何をしたかといえば、本を買った。帰国時に持ち帰った蔵書は数百冊に及んだと伝えられる。

神経衰弱になり失敗だったとも語られるあの2年間で、彼は英国から、下宿の一室に積み上がった書物と、「自分の進むべき道(鉱脈)を掘り当てた」という強い確信を持ち帰った。

高い時代に外国へ出た人ほど、何を持ち帰るかについて真剣だった。当たり前かもしれないが、この当たり前は示唆に富む。円が高く、外国が安かった時代、私たちは外国から何を持ち帰ったのだろうか。

私が英国で学んだ1990年代の半ばは、円が最も強かった時期にあたる。当時の日本人留学生は、少なくともお金の面では恵まれていた。

だが正直に言えば、その恵まれた条件を、私がどれほど活かしきれたかは心もとない。安いから買えた本、安いから行けた土地は数多くあったけれども、貧乏学生だったとはいえ、何にお金を使うかという悩みは、福澤や漱石時代の比ではない。彼らが一冊の辞書に賭けたような集中力や真剣さを、あの頃の自分が持っていたとは、とても言えない。

要は、高いということは、何を持ち帰るのかを、否応なく考えさせられるということ。3万円の航空券で行く外国と、30万円で行く外国とでは、見えるものの解像度が違ってくる。値札は、人を真剣にさせるということだ。

そう思うと、今の若い人たちが手にしている条件は、必ずしも不利ばかりではない。安い国から高い世界へ出ていくというのは、まさに明治の青年たちが置かれていた立場そのものだった。

1ドル163円の時代に、何を持ち帰るのか。それを決めてから、洋行せよ。彼らはそう問うていると思う。

蝉時雨:夏は地上の音と地中の静けさとでできている

蝉が一斉に鳴き始めた。蝉時雨が降るような、というのは言い得て妙で、あの声は一匹一匹の鳴き声というより、夏という季節そのものが立てている音のようにも聞こえる。

蝉については、誰もが子どもの頃に一度は聞かされる話がある。土の中で七年を過ごし、地上ではわずか七日で死ぬ、というあれである。

実を言えばこれは俗説らしい。日本の蝉の多くは幼虫期が二年から五年ほどで、成虫も条件がよければ二週間から一月ほどは生きるらしい。

だが私は、この俗説を訂正して回る気にはなれない。事実として不正確な話が何十年も語り継がれてきたのは、すなわち長い雌伏と短い地上での叫びに、人が自分の一生を映してきたからである。

人は蝉を語りながら、いつも人間の話をしている。

俗説を超える事実もある。北米には、十三年あるいは十七年きっかりの周期で発生する蝉がいる。周期ゼミと呼ばれる彼らは、その年数を一日たがえず土中で数え、ある初夏、数十億という単位で一斉に地上へ噴き出す。十三も十七も素数であることについては、周期の異なる天敵や近縁種と発生が重なりにくくするためではないか、とする説がある。

仮説の域を出ないというが、もし本当なら、蝉は地中の暗闇で素数を数えていることになる。十七年の沈黙が、生き延びるための精密な算術であったとは。自然の設計の深さに言葉が出ない。

蝉の声といえば、芭蕉。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

元禄二年(1689年)、出羽の山寺、立石寺での句とされる。あらためて不思議な句だと思う。蝉が鳴いているのに閑か。声が岩にしみ入っていくとき、音と静寂は両立する。思考と時間が止まるような底知れない沈黙が訪れる。

芭蕉にはもう一句、「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声」がある。数日後の死など知らぬげに鳴き続ける声を、憐れむのでも羨むのでもなく、ただ見つめている。この距離の取り方がなんとも良い。

現代は、沈黙に価値を認めない時代。発信し続けること、常に音を立てていることが存在の証しとされ、地中の十七年は無駄な時間としか勘定されない。

だが蝉を見ていて思うのは、あの長い地中の歳月は、準備期間なのではなく、それ自体が生の大部分だということだ。鳴いている数週間のほうが、むしろ例外。蝉時雨を浴びながら、あの何千匹何万匹の声の足元に、まだ順番を待つ何年分もの沈黙が埋まっていることを思う。

夏は、地上の音と地中の静けさとで、できている。

Golfer hitting from deep sand bunker near ocean on a links golf course

全英オープンの季節がやって来た ヤァ!ヤァ!ヤァ!

ゴルフ好きにはたまらない、全英オープンの季節がやって来た。今年は7/16~19、第154回、舞台はイングランド北西部サウスポートのロイヤル・バークデール。9年ぶりの開催と聞く。私にとってひそかな夏の楽しみ。

全英オープンには、海辺のリンクスコースでしか開催しないという不文律がある。

リンクスとは本来、海と耕地とを「つなぐ」土地のこと。海から吹き上げられた砂が堆積してできた砂丘地帯で、農耕には痩せすぎ、羊を放つほかに使い道のなかった土地である。そんなデコボコの窪みだらけ茂みだらけの荒地で、羊飼いの人たちがその間を縫うように球を打つ遊びを見つけた。

つまり、リンクスは、設計された「ゴルフ場」ではない。発見された「ゴルフ場」というわけだ。

ゴルフ場を「造る」のが当たり前になった現代から見れば、これは驚くべきこと。最古のコースたちは、大地の側が先に用意して発見されるのを待っていた。

リンクスは理不尽である。

フェアウェイのど真ん中に打った球が、見えない起伏に蹴られて壺のようなバンカーに消える。午前の組が微風の下を進み、午後の組が横殴りの雨に叩かれる。同じ一日のうちに、条件の平等など全く存在しない。

現代のトーナメントコースが水を撒き、芝を刈り込み、公平性を精密に設計するのとは正反対に、リンクスは公平であることを最初から約束していない。

あるがままに打て。

ゴルフの最も古い戒律は、球についてだけでなく、天候や運についても言っている。

選手たちの戦い方も、リンクスでは変わる。空中を正確に飛ばす近代の打ち方では風に翻弄されるので、地面を転がす古い技術が蘇る。風に逆らわず、風を計算に入れる。それでも最後は運に身を任せ頭を下げる。

バークデールには、1961年大会でアーノルド・パーマーが茂みから放った一打を記念する銘板が残されているらしい。神業の記念碑ではあるが、裏を返せば、帝王をして茂みに打ち込ませる土地だということでもある。

英国に暮らした頃、この国の人々が天気に対して持つ、独特の諦めの明るさに感心したことがある。傘を持たずに雨に降られても、まあこういう国だから、と笑って歩き続ける。文句を言っても空は変わらないという千年来の学習が、国民性にまで染み込んでいるのだろう。

その意味で、リンクスのゴルフは、英国精神の競技版だと思う。

制御できるもの(自分のスイング、クラブの選択、心の平静)に全力を尽くし、制御できないもの(風、雨、跳ね方)は淡々と受け入れる。ストア派の哲人が説いたことと、スコットランドの羊飼いが遊びの中で見つけたことは、存外に同じなのである。

思えば、私の仕事も人生も、リンクスのようなものだ。

丹精込めた一打が思わぬ突風に流される。逆に、OBだと思った一打が岩にあたってフェアウェイに戻される。だからこそ、あの大会を見るのだろう。理不尽な風の中で、誰も天を呪わず、黙々と次の一打の算段をするのみ。

今週末はバークデールの風を画面越しに浴びようと思う。できれば少し、強めに吹いてほしい。

Japanese festival procession with lantern-lit floats and people in traditional clothing at night

千年前の疫病対策が今も現役の風景として残っている街なんて世界におそらくない:祇園祭

七月の京都は、街ごと祭りになる。月初めの吉符入りから、月末の夏越祭までの一カ月が祇園祭である。

宵山の夕暮れ、コンチキチンの祭り囃子が路地に流れ、駒形提灯に灯がともると、まるで千年前にタイムスリップしたようになる。

華やかな祭りだと思われているが、始まりにあったのは、喜びではなく恐怖だった。

平安時代の初め、都はたびたび疫病に襲われた。当時、医学では手の打ちようがなく、人々は流行り病を、無念の死を遂げた人たちの怨霊の仕業だと考えた。この怨霊を鎮めるための儀式が御霊会である。

869年、疫病退散を祈って当時の国の数(66か国)になぞらえ、神泉苑に66本の鉾(ほこ)を立て、日本中の穢れを祓ったのが祇園祭の始まりと伝えられている。

祇園社に祀られた牛頭(ごず)天王は、疫病を司る恐ろしい神だった。恐ろしいからこそ、丁寧に祀る。災いをもたらす神を大切な客として迎え、慰め、お帰りいただく。祭りとはもともと、人間が恐ろしい神様と交わした約束事だったのだろう。

その記憶は、今も町の玄関先に残っている。祇園祭の粽である。食べる粽ではない。笹で作った御守りには「蘇民将来之子孫也」と書いてある。

昔、スサノオノミコトが旅の途中、裕福な弟に宿を断られ、貧しい兄の蘇民将来(そみんしょうらい)には手厚くもてなされた。神はそのお礼に、あなたの子孫は疫病にかからないだろうと約束した、という言い伝えに由来する。京都の家々は一年間この粽を戸口に掛け、「うちは蘇民将来の子孫です」と疫病の神に伝え続けているわけである。

思えば私は、予備校時代の一年を京都で過ごした。多感な浪人生の一年である。当時は受験のことで頭がいっぱいで、町家の戸口に下がる粽の意味など気にも留めなかった。

だが後になって思い返すと、下宿への行き帰り、毎日のように目にしていたあの粽こそ、千年前の疫病対策そのものだったのだと気づく。当時は素通りしていた景色に、何百年分もの祈りが仕込まれていたわけである。

戸口に印をつけて災いをやり過ごすという発想は、実は日本だけのものではない。

旧約聖書の出エジプト記には、エジプトを襲う疫病から逃れるため、イスラエルの人々が子羊の血を家の戸口に塗り、それを見た災いが家を「過ぎ越して」いった、という話がある。過越祭の由来である。

目に見えない災いに対して、戸口に印をつけ、我が家は来る場所ではないと申告する。地理的にも時代的にもかけ離れた二つの民族が、同じ発想にたどり着いているのは興味深い。

千年前の疫病対策が、今も現役の風景として残っている街は、世界を見渡してもほとんどないだろう。

この祭りのすごさは、続いてきたことにある。応仁の乱で都が焼け野原になったとき、祭りは30年余り途絶えた。それを復活させたのは、朝廷でも幕府でもない。町衆、つまり京都の商人や職人たちだった。祭りは上から与えられるものではなく、町の人たちが自分たちで担ぐものになったのである。

そして記憶に新しいところでは、コロナ禍の際、山鉾巡行は二年にわたって中止され、2022年に戻ってきた。疫病のせいで止まった疫病退散の祭りが、疫病の収束とともに再開する。私たちは知らないうちに、応仁の乱の後の町衆と同じことをしているのである。

山鉾を近くで見ると、もう一つ気づくことがある。

鉾を飾る布には、ペルシャの絨毯や十六世紀ヨーロッパのタペストリーなど、海を渡ってやってきた織物が数多く使われていて、これが山鉾が「動く美術館」と呼ばれる理由になっている。疫病を祓う祭りが、外国から来た織物で飾られているのだ。病も海を越えてやってきたが、美しいものもまた海を越えてやってきた。

京都の町衆は、世界との関わりを恐れて閉じこもるのではなく、その中から最良のものを選んで神様の乗り物を飾ったのである。この思い切りの良さと趣味の良さには感心させられる。

パンデミックを経験した私たちには、この祭りの祈りが、以前より身近に感じられるはずである。目に見えない災いに、共同体としてどう向き合うか。

恐怖を作法に変え、作法を美しさに変え、その美しさを千年続けていく。祇園祭とは、その一連の流れをそのまま見せてくれる、共同体の記憶装置なのだと思う。

宵山の人混みに立って囃子を聞いていると、この音を聞いてきた千年分の人々の、その祈りの列の一番後ろに自分も並んでいるような気がしてくる。今年もまもなく、鉾が都大路を巡る。

疫病退散。この四つの文字が、これほど身に沁みる時代も少ない。

Bamboo tree decorated with colorful wish tags under a starry night sky with the Milky Way visible

七夕の天の川ってもう誰も見ていない。7月ではなく8月に見よ。

七夕が過ぎた。商店街の軒先に立っていた笹が片付けられ、色とりどりの短冊も、子どもの文字で「サッカーせんしゅになれますように」と揺れていたあの願いごとも、この夏の記憶の奥へ仕舞われていく。

ふと考える。この祭りの主役であるはずの天の川を、七日の夜、見上げた人がどれほどいただろうか。そもそも私たちは、天の川を最後にいつ見ただろうか。

万葉の人々は、見ていた。万葉集には七夕を詠んだ歌が百三十首余りあるとされ、一つの主題としては異例の厚みである。柿本人麻呂歌集には、こんな歌がある。

天の川 楫(かじ)の音聞こゆ 彦星と 織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも

天の川から舟を漕ぐ楫の音が聞こえてくる、彦星が織女に逢いに渡っているらしい、という歌だ。

注意したいのは、歌人たちは実際に夜空を仰ぎ、白くけぶる光の帯を見て、そこに川の水音や楫の音まで感じ取っていた。彦星と織女の物語は、確かに空に実在していたと思われる。

その七夕が、少しずつ私たちから切り離されていく。

最初の切断は、明治六年の改暦。七夕は本来、旧暦七月七日の行事である。旧暦のその夜は晴天率の高い盛夏にあたり、宵のうちに月が沈んで、天の川が最もよく見える頃合いだったとされる。星の祭りは、星の見える夜に開かれていた。

ところが改暦によって、七夕は梅雨の季節行事に固定されてしまった。国立天文台が旧暦に準じた「伝統的七夕」の日を毎年八月に報じているのは、このねじれへのささやかな異議申し立てなのだろう。

二度目の切断は、もっと静かに進んだ。光害である。

2016年に国際研究チームが発表した調査によれば、天の川が見えなくなるほど明るい夜空の下に暮らす人は世界人口の三分の一を超え、日本では人口のじつに七割に上るという。多くの日本人が、自然の状態より明るい夜を過ごしていて、晴れていても、もう見えないのだ。

研究チームの一員は、光害の本当の損失は天体観測への支障ではなく、星空を眺めて思索する機会が人から奪われることだ、という趣旨を述べていた。粋なコメントだと思う。

失われたのは、天の川という風景であると同時に、仰ぎ見ながら何かを思う、その時間なのだ。うつむいてスマホの画面を繰る現代人の姿勢とは真逆といえる。

それでも、川は消えたわけではない。街の光が届かない場所へ行けば、天の川は千年前と同じ顔で流れている。

いつだったか、太平洋の島で夜、何気なく顔を上げた瞬間のことを覚えている。空の真ん中に、白い帯が音もなく横たわっていた。ああ、これを万葉の人は毎晩見ていたのか、千年前の歌は比喩ではなく見た通りの写生だったのかと気づいた。

今年の七夕は、もう過ぎてしまった。だが幸いなことに、本当の七夕はまだ先である。

旧暦に従えば、牽牛と織女の逢瀬の夜は八月に巡ってくる。今年は八月十九日。梅雨も明け、宵に月が沈み、天の川が最もよく見える、古人が祭りを置いたその夜に。

短冊はもう仕舞われたが、願いごとを一つ伝えてはどうか。その晩は、どこか暗い空の下から見上げられますように。

Antique books about American history, colonial law, and congress with a colonial-era American flag, a vintage map of the eastern United States, a quill in an inkpot, a pocket watch, and handwritten letters on a wooden table.

アメリカ建国1776年の教訓:ギボンとスミスの視点

今月4日、アメリカは建国250年を迎えた。誠におめでたくお祝い申し上げたい。

今回は、同じ1776年に世に出た本二冊を採り上げようと思う。その二冊とは、同年2月に第一巻が刊行されたエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』と、その翌月に出たアダム・スミス『国富論』である。

新しい国家の誕生と、大帝国の死亡診断書と、富の理論。後世から見れば近代を形づくる三つの文書が、申し合わせたように同じ一年に、それも数カ月のうちに現れた。

歴史にはときおり、こういう符合がある。だがこれは単なる偶然の同居ではない。二冊の本はどちらも、独立宣言が突きつけた問い、すなわち「帝国はなぜ植民地を失うのか」という問いに、事件に先立って答えを書いていた。

ギボンがこの大著を思い立った瞬間については、本人が回想録に書き残している。

1764年10月、ローマを旅していた彼は、カピトリーノの丘の廃墟に腰を下ろしていた。かつてユピテルの神殿があった場所で、裸足の修道士たちが夕べの祈りを唱えるのを聞いたとき、この都の衰亡を書こうという着想が降りてきたのだという。

彼の答えは、今なお新しい。ローマは一撃で滅んだのではない。帝国は自らの過剰な大きさという重みに、内側から少しずつ耐えられなくなっていった。衰亡とは事件ではなく過程である。そして過程であるがゆえに、その内側にいる者の目には映らない。

一方のスミスは、同じ問いを台帳の側から解いた。

『国富論』といえばピン工場の分業や「見えざる手」が引かれるのが常だが、この書物の終盤には、植民地を論じた長大な章がある。そこでスミスは、母国の重商主義的な独占が帝国自身にとって割に合わない事業であることを、費用と便益から冷静に算定してみせた。

植民地が帝国の経費を負担しないのであれば、英国はむしろ自らこれを手放すべきである。大西洋帝国の構想は帝国そのものではなく、帝国という夢にすぎない。そう言い切ってのける経済学者が、開戦の年のロンドンにいたのである。

政治家たちが帝国の威信を語っているときに、帳簿を見よと言った。この胆力には、二百五十年を経ても敬服するほかない。

なお、興味深いことに、この二人は互いを知る仲であった。

ともにロンドンの文人サークル、サミュエル・ジョンソンやエドマンド・バークが設立した「The Club(クラブ)」に名を連ねており、ヨーロッパ随一の都市の、ごく狭い社交の輪の中から、同じ春に、帝国への二つの診断書が生まれた。

ギボンは世紀の単位で帝国の寿命を測り、スミスは収支の単位で帝国の採算を測った。物差しは違えど、結論は響き合う。過剰に広がったものは、その広がり自体によって蝕まれる、と。

ここに一つ、皮肉な暗合がある。

ギボンは執筆のかたわら英国議会に議席を持ち、アメリカ植民地への強硬策を支持する側に票を投じていた。ローマの衰亡をあれほど鮮やかに見通した眼にも、自らが生きる帝国の亀裂は見えなかった。

スミスの帳簿にせよ、閣議を動かすには至らなかった。診断は正しくとも、患者は聞く耳を持たぬのが常である。人間の視力とはそういうものなのだろう。

建国250年のアメリカをめぐっては、今後の行方を論じる声がかまびすしい。私はここでアメリカの衰亡を予言するわけではない。歴史は繰り返さないし、ローマと現代を安易に重ねたいわけでもない。

ただ、韻は踏む。

1776年の二冊が教えてくれるのは予言ではなく、測り方。国家の健康は四半期や選挙の周期ではなく、世紀の単位と、正直な帳簿との両方で測らねば見えてこない。そして最も見えにくいのは、いつの時代も、自分が立っている足元なのだ。

英国で歴史学を学んでいた頃、かの国の書店では、ギボンもスミスも今なお普通の顔をして棚に並んでいることに感心した記憶がある。二百五十年前の書物を現役の同時代人として読み続ける社会は、それだけで一つの見識である。

独立宣言が読み上げられるこの夏、片隅で二冊の頁を繰る。それもまた、250年の祝い方の一つだと思っている。

Crowd of soccer fans in red and blue sections at stadium cheering with flags and banners

W杯熱狂の裏側:「日本人」という強烈な連帯感はいつ生まれる?

普段はサッカーに全く興味がない人でも、ワールドカップ(W杯)の日本代表戦となれば、テレビの前にかじりつき、青いユニフォームを着て熱狂する。

深夜・早朝であろうと眠い目を擦りながらキックオフの時間に起きて応援する。

あの期間中、私の中にも沸き起こり、日本中を包み込む「私たち日本人」という強烈な連帯感は、一体どこから湧いてくるのだろうか。


文化人類学のメガネをかけてこの現象を眺めると、面白い事実が見えてくる。

それは、「私たちは『日本人だから』応援しているのではなく、W杯があるから『日本人になる』」という逆転の構造である。

「日本人」の境界線はどこにあるのか?

私たちは普段、「自分が日本人であること」を疑わない。しかし、文化人類学の視点から「日本とは誰を指すのか?」と問われると、その実体は非常に曖昧だ。

たとえば「血筋(ルーツ)」を基準にしようとしても、両親が非日本人であっても日本で育ち「日本人」のアイデンティティを持つ人はいる。

あるいは「国籍」を基準にしても、ノーベル賞受賞者のカズオ・イシグロ氏(英国籍)やノーベル物理学賞受賞の眞鍋淑郎氏(米国籍)を、私たちはどこか「日本人」として誇らしく思ってしまう。

このように、「これがあれば日本人だ」という明確な共通性や客観的な基準で、人間の集団に固定的な線を引くことは到底できないのである。

「文化が違うから」境界ができるのではない

ここで非常に重要なヒントを与えてくれるのが、文化人類学者バルト。

私たちは通常、「同じ言語や習慣(文化)を共有している人たちが集まって、一つの民族(集団)になる」と考えがちだ。しかしバルトはこれを真っ向から否定し、「独自の文化があるから民族があるのではなく、境界があるから民族がある」と主張した。

どういうことか。バルトによれば、「文化が異なるから民族のあいだの境界線が引かれるのではなくて、境界線を引こうとするから文化の違いが強調される」のである。

文化人類学では、このように状況によって境界線が引かれたり、集団の輪郭が変わったりする柔軟で可変的な集団の特性を「エスニシティ」と呼んでいる。

W杯という巨大な「境界線」

ワールドカップの熱狂は、まさにこの「境界線とエスニシティ」のメカニズムそのものだ。

普段の日本社会において、私たちは「〇〇会社の社員」「〇〇大学の学生」「上司と部下」「男性と女性」といった無数の小さな境界線の中でバラバラに生きている。

満員電車で隣り合う見知らぬ他人に、「あぁ、私たち同じ日本人だね」という連帯感を抱くことはまずないだろう。

しかし、W杯という巨大なイベントは、「日本 対 オランダ」といった形で、他国との間に、強烈な「境界線」を世界規模で引いてみせる。

強大な「他国(対戦国)」が現れ、そこに境界線が引かれた瞬間、普段はバラバラの価値観で生きている私たちの間に、「彼らとは違う『私たち(日本人)』」という帰属意識(エスニシティ)が事後的に、そして爆発的に立ち上がるのだ。

お祭りが生み出す「私たち」

そう、私たちはあらかじめ強固な「日本人」という実体を持っているわけではない。W杯という舞台で「他者との境界線」が引かれた瞬間に、一時的に、そして強烈に「私たち日本人」というアイデンティティを創り出しているのだ。

ワールドカップとは、単なるスポーツの祭典ではない。国と国との境界線をエンターテインメントとして消費し、私たちが普段は忘れている「私たち」というアイデンティティ(エスニシティ)を強烈に呼び覚ます、巨大な文化装置なのである。

Crowd of fans in blue jerseys celebrating at a busy Tokyo intersection at night.

W杯熱狂の裏側:渋谷のスクランブル交差点でハイタッチする理由

「ワールドカップ」熱狂の裏側に何があるのか?
文化人類学の視点から

普段の満員電車を思い出してほしい。隣の人と肩が少し触れただけでも、「チッ」と舌打ちが聞こえてきそうな、冷たくピリピリとした空気がある。

日本社会は、会社や学校といった同じ「場」を共有する身内、すなわち「ウチ」には優しい反面、見知らぬ人、すなわち「ヨソ者」に対しては非常に排他的で冷たい傾向がある。

ところが、ワールドカップで日本代表が歴史的勝利を収めた時はどうだろう。渋谷のスクランブル交差点には青いユニフォームを着た人々が殺到し、普段なら絶対に目を合わせないような若者、サラリーマン、ギャル、外国人までもが、満面の笑みで見知らぬ者同士ハイタッチをし、抱き合っている。

この「魔法のような現象」は、単なるお祭り騒ぎや若者の悪ノリなのだろうか。そうではない。文化人類学の視点から見ると、これは現代人が無意識に行っている「巨大な儀礼」であることが見えてくる。

日常を脱ぎ捨てる「3つのステップ」

人類学者ファン・ヘネップは、世界中のさまざまな儀礼、たとえば成人式や結婚式などを分析し、それらが〈分離〉〈過渡〉〈統合〉という3つの局面から成り立っていることを見出した。実は、渋谷での熱狂もこのプロセスに見事に重ね合わせることができる。

① 〈分離〉:青いユニフォームは「変身アイテム」

最初の〈分離〉とは、日常から切り離される段階である。試合当日、トイレでこっそりスーツを脱ぎ、日本代表のユニフォームに着替え、頬に日の丸のフェイスペイントをした瞬間、人はどうなるか。その人は「〇〇会社の課長」や「〇〇大学の学生」といった日常の肩書きから切り離される。あの青いユニフォームは、日常のしがらみを脱ぎ捨てるための「儀礼の衣装」なのである。

② 〈過渡〉:地位が消滅する「空白地帯」

次にやってくるのが〈過渡〉の局面である。人類学者ヴィクター・ターナーは、この「日常から切り離された、どっちつかずの境界状態」を「リミナリティ(境界状況)」と呼んだ。試合終了のホイッスルとともに、スクランブル交差点という巨大な「リミナリティ空間」が現出する。そこは、「赤信号で止まる」「他人にむやみに話しかけない」といった日常のルールが一時的に無効化される、特別な空間である。

究極の連帯感「コミュニタス」の爆発

このリミナリティ空間で何が起きるのか。ターナーによれば、この状態に置かれた人々からは、あらゆる地位や身分が剥ぎ取られ、そこに「絶対的な平等意識」や「仲間意識」が生まれる。ターナーはこれを「コミュニタス」と名付けた。

これこそが、ハイタッチの正体である。普段は「ウチ」と「ヨソ」を厳格に分ける私たちも、青いユニフォームという「共通の象徴」を身にまとい、スクランブル交差点という非日常空間に放り込まれた瞬間、そこにいる数千人の「ヨソ者」を、すべて「日本代表を応援する仲間」、すなわち「ウチ」へと反転させる。

そこには上司も部下も、金持ちも貧乏もない。日常の息苦しい属性から解放された究極の「コミュニタス(連帯感)」の中で、私たちは嬉しくてたまらず、見知らぬ誰かにハイタッチを求めてしまうのである。

③ 〈統合〉:祭りのあと、再び日常へ

そして、儀礼の最後は〈統合〉である。夜が明け、始発の電車に乗る頃にはフェイスペイントを洗い落とし、再びスーツや私服に着替えて、人々はそれぞれの「日常の秩序」へと帰っていく。

ワールドカップは「ガス抜き」装置

文化人類学の視点から見れば、渋谷のスクランブル交差点は、地位や肩書き、見えない同調圧力に縛られて生きる現代人が、すべてを忘れて「コミュニタス」の熱狂に浸るための、壮大な「ガス抜きの場」といえる。

次にワールドカップでハイタッチのニュースを見かけたら、「現代の儀礼が機能し、強烈なコミュニタスが発生しているのだ」と考えてみるとよい。少しだけ、世界の見え方が変わるはず(笑)