七月の京都は、街ごと祭りになる。月初めの吉符入りから、月末の夏越祭までの一カ月が祇園祭である。宵山の夕暮れ、コンチキチンの祭り囃子が路地に流れ、駒形提灯に灯がともると、まるで千年前にタイムスリップしたようになる。
華やかな祭りだと思われているが、始まりにあったのは、喜びではなく恐怖だった。
平安時代の初め、都はたびたび疫病に襲われた。当時、医学では手の打ちようがなく、人々は流行り病を、無念の死を遂げた人たちの怨霊の仕業だと考えた。この怨霊を鎮めるための儀式が御霊会である。869年、疫病退散を祈って当時の国の数(66か国)になぞらえ、神泉苑に66本の鉾(ほこ)を立て、日本中の穢れを祓ったのが祇園祭の始まりと伝えられている。
祇園社に祀られた牛頭(ごず)天王は、疫病を司る恐ろしい神だった。恐ろしいからこそ、丁寧に祀る。災いをもたらす神を大切な客として迎え、慰め、お帰りいただく。祭りとはもともと、人々の共同体が恐ろしい神様と交わした約束事だったのだろう。
その記憶は、今も町の玄関先に残っている。祇園祭の粽である。食べる粽ではない。笹で作った御守りには「蘇民将来之子孫也」と書いてある。
昔、スサノオノミコトが旅の途中、裕福な弟に宿を断られ、貧しい兄の蘇民将来(そみんしょうらい)には手厚くもてなされた。神はそのお礼に、あなたの子孫は疫病にかからないだろうと約束した、という言い伝えに由来する。京都の家々は一年間この粽を戸口に掛け、「うちは蘇民将来の子孫です」と疫病の神に伝え続けているわけである。
思えば私は、予備校時代の一年を京都で過ごした。多感な浪人生の一年である。当時は受験のことで頭がいっぱいで、町家の戸口に下がる粽の意味など気にも留めなかった。
だが後になって思い返すと、下宿への行き帰り、毎日のように目にしていたあの粽こそ、千年前の疫病対策そのものだったのだと気づく。当時は素通りしていた景色に、何百年分もの祈りが仕込まれていたわけである。京都という町は、こういう仕掛けをそこかしこに潜ませている。
戸口に印をつけて災いをやり過ごすという発想は、実は日本だけのものではない。
旧約聖書の出エジプト記には、エジプトを襲う疫病から逃れるため、イスラエルの人々が子羊の血を家の戸口に塗り、それを見た災いが家を「過ぎ越して」いった、という話がある。過越祭の由来である。
目に見えない災いに対して、戸口に印をつけ、我が家はこちら側の者だと申告する。地理的にも時代的にもかけ離れた二つの民族が、同じ発想にたどり着いているのは興味深い。災いの正体が分からないとき、人はまず自分の家の境界を守ろうとするものらしい。
千年前の疫病対策が、今も現役の風景として残っている街は、世界を見渡してもほとんどないだろう。
この祭りのすごさは、続いてきたことにある。応仁の乱で都が焼け野原になったとき、祭りは30年余り途絶えた。それを復活させたのは、朝廷でも幕府でもない。町衆、つまり京都の商人や職人たちだった。祭りは上から与えられるものではなく、町の人たちが自分たちで担ぐものになったのである。
そして記憶に新しいところでは、コロナ禍がある。山鉾巡行は二年にわたって中止され、2022年に戻ってきた。疫病のせいで止まった疫病退散の祭りが、疫病の収束とともに再開する。私たちは知らないうちに、応仁の乱の後の町衆と同じことをしていたのである。
山鉾を近くで見ると、もう一つ気づくことがある。
鉾を飾る布には、ペルシャの絨毯や十六世紀ヨーロッパのタペストリーなど、海を渡ってやってきた織物が数多く使われていて、これが山鉾が「動く美術館」と呼ばれる理由になっている。疫病を祓う祭りが、外国から来た織物で飾られているのだ。病も海を越えてやってきたが、美しいものもまた海を越えてやってきた。
京都の町衆は、世界との関わりを恐れて閉じこもるのではなく、その中から最良のものを選んで神様の乗り物を飾ったのである。この思い切りの良さと趣味の良さには、いつ見ても感心させられる。
パンデミックを経験した私たちには、この祭りの祈りが、以前より身近に感じられるはずである。目に見えない災いに、共同体としてどう向き合うか。恐怖を作法に変え、作法を美しさに変え、その美しさを千年続けていく。祇園祭とは、その一連の流れをそのまま見せてくれる、共同体の記憶装置なのだと思う。
宵山の人混みに立って囃子を聞いていると、この音を聞いてきた千年分の人々の、その祈りの列の一番後ろに自分も並んでいるような気がしてくる。今年もまもなく、鉾が都大路を巡る。
疫病退散。この四つの文字が、これほど身に沁みる時代も少ない。
