蝉時雨:夏は地上の音と地中の静けさとでできている

蝉が一斉に鳴き始めた。蝉時雨が降るような、というのは言い得て妙で、あの声は一匹一匹の鳴き声というより、夏という季節そのものが立てている音のようにも聞こえる。

蝉については、誰もが子どもの頃に一度は聞かされる話がある。土の中で七年を過ごし、地上ではわずか七日で死ぬ、というあれである。

実を言えばこれは俗説らしい。日本の蝉の多くは幼虫期が二年から五年ほどで、成虫も条件がよければ二週間から一月ほどは生きるらしい。

だが私は、この俗説を訂正して回る気にはなれない。事実として不正確な話が何十年も語り継がれてきたのは、すなわち長い雌伏と短い地上での叫びに、人が自分の一生を映してきたからである。

人は蝉を語りながら、いつも人間の話をしている。

俗説を超える事実もある。北米には、十三年あるいは十七年きっかりの周期で発生する蝉がいる。周期ゼミと呼ばれる彼らは、その年数を一日たがえず土中で数え、ある初夏、数十億という単位で一斉に地上へ噴き出す。十三も十七も素数であることについては、周期の異なる天敵や近縁種と発生が重なりにくくするためではないか、とする説がある。

仮説の域を出ないというが、もし本当なら、蝉は地中の暗闇で素数を数えていることになる。十七年の沈黙が、生き延びるための精密な算術であったとは。自然の設計の深さに言葉が出ない。

蝉の声といえば、芭蕉。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

元禄二年(1689年)、出羽の山寺、立石寺での句とされる。あらためて不思議な句だと思う。蝉が鳴いているのに閑か。声が岩にしみ入っていくとき、音と静寂は両立する。思考と時間が止まるような底知れない沈黙が訪れる。

芭蕉にはもう一句、「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声」がある。数日後の死など知らぬげに鳴き続ける声を、憐れむのでも羨むのでもなく、ただ見つめている。この距離の取り方がなんとも良い。

現代は、沈黙に価値を認めない時代。発信し続けること、常に音を立てていることが存在の証しとされ、地中の十七年は無駄な時間としか勘定されない。

だが蝉を見ていて思うのは、あの長い地中の歳月は、準備期間なのではなく、それ自体が生の大部分だということだ。鳴いている数週間のほうが、むしろ例外。蝉時雨を浴びながら、あの何千匹何万匹の声の足元に、まだ順番を待つ何年分もの沈黙が埋まっていることを思う。

夏は、地上の音と地中の静けさとで、できている。