書棚の一角に、時々引っ張り出しては読み返す絵本がある。『泥かぶら』である。
子ども向けの本を大人が読み返すのは気恥ずかしいものだが、この一冊は別で、読むたびに違うところが刺さる。刺さり方が変わるのは、たぶんこちらが変わっているからだろう。
物語はこうだ。
醜い顔のために泥かぶらと呼ばれ、石を投げられ、蔑まれて育った少女がいる。誰からも疎まれ、自分でも自分を憎んでいた彼女の前に、ある日、老人が現れる。美しくなりたいと願う少女に、老人は三つのことを守れば必ず美しくなれる、と告げる。
一つ、自分をみじめだと思わないこと。
二つ、いつも笑顔でいること。
三つ、人のお手伝いをすること。
たったこれだけである。呪文でも薬でもない。少女は半信半疑のまま、それを愚直に続ける。そして歳月が過ぎ、いつしか村の人々の目に、彼女は美しく映るようになっていく。
読み返すたびに思うのは、この三つが同列ではない、ということ。
最初の二つは、自分の内側だけで完結する。自分をみじめだと思わない。笑顔でいる。どちらも、一人きりの部屋でも実践できる。
ところが三つめだけは性質が違う。相手がいなければ成立しないのである。誰かのところへ出向き、声をかけ、手を動かさなければ、この約束は一歩も進まない。そして、内側の二つを本当に達成させるのは、この三つめだけなのだと思う。
自分をみじめだと思うまいと念じても、念じている限り人は自分のことを考えている。笑顔でいようと努めても、努めている笑顔は硬い。ところが誰かのために手を動かしている間、人は自分の惨めさを思い出す暇がない。そして、役に立てたときに漏れる笑顔は、作ろうとして作った笑顔ではない。三つめが、前の二つを連れてくるのである。老人がこの順番で語ったのは、おそらく偶然ではない。
では、その三つめを大人の日常に翻訳するとどうなるか。
「何か私にできることはありませんか」
ずいぶん平凡な言葉である。だが、この一言を口に出す習慣があるかどうかで、その人の周囲に流れ込んでくるものが根本から変わると思っている。
第一に、情報が変わる。人は、この問いを向けられて初めて、自分が本当に困っていることを口にする。世間話では決して出てこない、その人の本当の課題が、この一言の後にだけ現れる。長く仕事をしてきて痛感するのは、価値ある情報は検索の結果としてではなく、信頼の結果として手に入るということである。
第二に、立ち位置が変わる。人に何かを求めて近づく者は、相手にとって警戒すべき存在である。人に何かを差し出して近づく者は、相手にとって迎え入れるべき存在になる。同じ人物が同じ相手に会っていても、この違いは決定的である。
第三に、そして最も大きいのは、自分が変わることである。この問いを習慣にすると、他人を「自分に何をしてくれる人か」ではなく「自分が何をできる相手か」として見るようになる。世界の見え方が、受け取る側から差し出す側へ反転する。
ただし、見返りを計算した「何かできることはありませんか」は、相手に必ず見抜かれる。泥かぶらが石を投げられながらも人のために働いたのは、そうすれば得をすると踏んだからではない。損得の外側で続けたからこそ、あの三つの約束は効いたのである。この点だけは、絵本のほうが世のビジネス書よりずっと厳しい。
歳を重ねるほど、人は「何かできることはありませんか」と問われる側になっていく。問う側でい続けるには、意識的な努力が要る。私がこの絵本を時々引っ張り出すのは、たぶんその確認のためである。
今日、誰かにあの一言を言っただろうか。言えていない日は、少しばかり、みじめな顔をしているのかもしれない。
