Aerial view of flooded rice paddies, waterways, villages, and wooded hills

車を捨てて、命を救え

千葉の豪雨から、一週間余りが過ぎた。

八月十三日の夕方から夜にかけて、線状降水帯が度々発生し、千葉県各地で二十四時間の雨量が観測史上最多を更新した。特別警報が出され、駅の周辺が冠水し、車ごと水に呑まれた方がいた。死者は十三人。浸水した住宅は約四千棟に及ぶ。

気象庁はこれを「令和八年八月千葉豪雨」と命名した。地域名を冠した命名は九年ぶりだという。

名を付けるのは、忘れないためである。


人類最古の文学と言われる『ギルガメシュ叙事詩』にも、洪水の話が出てくる。四千年ほど前の古代メソポタミアで粘土板に刻まれた物語である。

神々が人間を滅ぼすために大洪水を起こすことを決める。だが一柱の神が、ウトナピシュティムという男だけに密かに告げる。家を壊し、船を造れ。家財を捨て、命を救え、と。

男は船を造り、家族と、あらゆる生き物の種を乗せる。雨は六日六晩降り続き、七日目に止む。水が引いた後、彼はハトを放つ。戻ってくる。ツバメを放つ。これも戻る。最後にカラスを放つと、カラスは戻ってこない。どこかに陸が現れたのだ。

これを聞いて何か聞き覚えのある話だと思われたはず。旧約聖書のノアの箱舟は、この物語と細部までよく似ている。学術的には、このメソポタミアの伝承が旧約聖書の記述に影響を与えたと考えられているらしい。

つまり、人類が文字を持って最初に書き残した物語の一つが、洪水の記憶だったということになる。

なぜ、洪水だったのか。

チグリス・ユーフラテスの流域は、しばしば氾濫した。豊かな土をもたらす川が、同時にすべてを流し去る。その恐怖を、彼らは物語にして粘土板に刻んだ。おそらく実際に、村が一つ消えるような洪水があったのだろう。

生き延びた者が語り、次の世代が聞き、また語る。そうして四千年が経った。物語というのは、そういう記憶のしくみである。

私たちも同じことをしてきた。各地に残る津波の到達点を示す石碑、ここより下に家を建てるなという戒めの碑。日本各地の水にまつわる地名も、多くはそこが水と関わる土地であることを示している。

先人たちは、忘れっぽい子孫のために、あちこちに印を残していった。

ウトナピシュティムに告げられた言葉を、もう一度思い出したい。家を壊し、船を造れ。家財を捨て、命を救え。

四千年前の粘土板に刻まれた助言は、驚くほど単純。ものは諦めろ(今回なら車を諦めろ)、命だけを持って逃げろ。

この一点だけが、あらゆる文明が水から学び続けてきた、たった一つの教訓なのかもしれない。

亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

Hourglass beside an open manuscript on a wooden table

忙しい、と言わないために:セネカ『人生の短さについて』

盆休みが明けた。

休み明けの数日というのは、どうも調子が出ない。たまった連絡に目を通し、動き出した予定に追われているうちに、休んでいたことを忘れる。そして気づくと、また「忙しい」と口にしている。

セネカの『人生の短さについて』を思い出した。二千年近く前、ローマの哲学者が友人に宛てて書いた短い本である。

彼は言う。人生は短いのではない。我々がそれを短くしているのだ、と。

与えられた時間は、実は十分に長い。ただ、そのほとんどを、人は他人のために使い、無駄なことに費やし、そして最も皮肉なことに、いつか来る「そのうち」のために取っておく。今日を生きずに、いつか暇になったら本当にやりたいことをやろうと考える。そうして、その日が来る前に人生が終わる。

とりわけ痛烈なのは、忙しさに関する彼の観察である。

多忙な人ほど、実は何も成し遂げていない。自分の時間を他人に渡しておきながら、その状態を誇っている。財産を人に分け与えることには誰もが慎重なのに、時間だけは、求められるままに際限なく差し出してしまう。人が最も惜しむべきものを、人は最も気前よく手放す。

二千年前のローマにも、忙しさを自慢する人間が沢山いたということだろう。予定表を埋めることが充実の証だと信じ、空白を恐れ、次から次へと人と会い、そして何一つ自分のためには使っていない。まったく、今の私たちと変わらない。

皮肉なのは、彼自身が皇帝ネロの側近として、ローマで最も多忙な人間の一人だったことだ。おそらく、この本もまた、書いた本人が実践できていたかどうか…、いや、できていなかったからこそ、自分に向けた戒めとして書いたのだろう。言葉に切実さがある。

こうした実情に対し、彼が勧めているのは、意外に地味な処方である。それは、過去の賢者たちと交わること

つまり、本を読むこと。彼らはいつでも会ってくれるし、こちらの時間を奪わない。そして自分自身のために時間を取ること。それだけである。

問い直すべきは、休むかどうかではなく、自分の時間を何に使っているか、ということ。

セネカはこうも言っている。人は、自分の土地に他人が入ってくれば怒るのに、自分の人生には誰でも入らせてしまう、と。

今後しばらく「忙しい」と言うのをやめてみようと思う。口にするたび、本当に忙しくなっていく気がするからだ。

京都の五山送り火と思い出

昨夜、京都では五山の送り火が焚かれた。

予備校時代の一年を、私は京都で過ごした。あの夏、住んでいた学生アパートの屋上から、送り火を見た。山肌に炎の文字が浮かび上がり、しばらく燃えて、少しずつ小さくなって消えた。それだけの、静かな時間だった。

当時の私は、あれが死者を送る火だということを、頭では知っていながら、たいして分かってはいなかったと思う。受験のことで頭がいっぱいの十八歳に、死者を送るという感覚は遠かった。

年を重ねると、送るべき人が増えてくる。

盆というのは、考えてみると不思議な習慣である。年に一度、死者が帰ってくる。迎え火を焚いて招き、数日ともに過ごし、送り火を焚いて送り出す。死者が「行き来する」という前提が、この国にはある。西洋の墓地を歩いたときに感じたのは、あちらの死者は「そこに眠っている」ということだった。訪ねていくものであって、帰ってくるものではない。無論、どちらが正しいという話ではない。

あの一年、私は自分の将来のことばかり考えていた。今は、送り火のほうを思い出す。

夏が、少し終わった。

Renaissance painting of Madonna and Child displayed in a glass case with visitors in the museum gallery

『モナ・リザ』は「おめでた」の絵だった

前回に続いて、山田五郎さん流の美術鑑賞を。五郎さんはモナリザを「『西洋絵画史上最高』とみんながハナから決めつけて観るのはどうなの?」と、お決まりのブームにチクリと釘を刺している。同感。

ダ・ヴィンチは「万能の天才」と言われるが、実はものすごく飽きっぽく、やり散らかして終わる「企画倒れ」が多い人だった。飛行機や戦車のアイデアなど、たくさんのデッサン(設計図)は残したものの、そのほとんどは頭の中だけで終わり、実際に完成させた絵画は一生の間にたった15点ほどしかないと。なるほど。

昔、ルーブルで観たが、『モナ・リザ』って、実はタテ77cm×ヨコ53cmという、とても小さな絵。

五郎さんはそのダ・ヴィンチの「技術」をやはり大絶賛。モナ・リザが笑っているようにも、そうでないようにも見える「謎の微笑」。これは、ダ・ヴィンチが完成させた「スフマート(ぼかし技法)」というすごい職人技のおかげ。普通の絵のように「輪郭線」をハッキリ描くのではなく、薄い絵の具を何十回も塗り重ねて、まるで煙のように境目をあいまいにぼかしていく。これによって、人間の目の錯覚が引き起こされ、観る人のその時の気分によって表情が違って見える不思議な絵になった。

モナ・リザが着ている地味な黒い服は、昔は「お葬式の喪服」だと言われていたが、最新の科学調査で、黒い服の上に「妊婦や出産直後の女性が着る、薄いガーゼの服」が描かれていることが分かった。

つまり、これは新しい命の誕生をお祝いして描かれた、とてもハッピーで温かい絵だったのである。ご存知でした?

西洋絵画の面白さ:山田五郎さんの主張

美術評論家や編集者として、アートの楽しさを優しくおもしろく伝え続けてくれた山田五郎さん。ご冥福をお祈りします。以前、彼の本『知識ゼロからの西洋絵画入門』を非常に面白く読ませていただいた。

あらためて引っ張り出して、彼が私たちに一番伝えたかったメッセージをまとめてみた。


絵画鑑賞は「勉強」じゃない

美術館で絵を観るというと、「歴史の勉強みたいで難しそう」「センスがないと分からないのかな」と思ってしまう人も多いと思うが、山田五郎さんは「そんなことはまったくない!」と。特別な知識や努力、才能なんてなくても、ただ自分が好きな絵を観て「いいな」と楽しむだけで、立派な絵画鑑賞なのだと。絵画は、ゴルフや釣りのように、誰もが自由に楽しんでいい「大人の趣味」のひとつにすぎない。

五郎さん流「観る眼」を育てる4つのコツ

ただ、せっかく観るなら「ちょっとしたコツ」を知っておくと、面白さが何倍にもアップする。五郎さんがすすめる「観る眼」を育てるコツは、とてもシンプルだ。

  • 何ごとにもとらわれずに観る  「これは有名なダ・ヴィンチの絵だからすごいはずだ」というような知識や情報は、ときに私たちの目を曇らせてしまう。世の中には、有名な画家のイマイチな絵もあれば、無名な画家の素晴らしい絵もたくさんある。だから、まずは名前やタイトルを気にせず、まっさらな心で絵そのものをじっくり観てみよう。自分なりに「好きだな」「おもしろいな」と感じた後で、初めて解説や画家の名前を見るのが五郎さんのおすすめ。
  • 実物をたくさん観る  画集でもいいので、とにかくたくさんの絵を観ていくと、だんだん「自分の好みの基準」が分かってくる。
  • 興味を持って調べてみる  絵を観て「どうしてこんな描き方なんだろう?」と不思議に思ったら、その裏にある歴史を少しだけ調べてみよう。背景を知ると、絵がグッと身近な存在になる。
  • 作品を買って飾ってみる  芸術は本来、美術館に閉じ込めておくものではなく、私たちの暮らしを豊かにするためのもの。高価な名画でなくても、お気に入りの絵を自分の部屋に飾って毎日眺めることこそが、絵画との一番正しい付き合い方だ。

西洋絵画の「リアルで濃い」裏側を楽しもう

明治時代以降に日本に入ってきた新しい絵画(近代絵画)は、おだやかで分かりやすく、親しみやすいものがたくさん。けれど、もっと古い西洋絵画の根っこには、「古代ギリシャの文化」「キリスト教」「ゲルマン民族(森の文化)」という3つの全く違う文化が混ざり合った、人間味あふれるどろどろとしたリアルで濃い伝統がある。

「人間は裸が一番美しい!」とするギリシャの考え方と、「裸はハレンチだからダメ!」とするキリスト教のルールがぶつかり合ったりしながら、画家たちは必死に工夫して美しい絵を生み出してきた。この「リアルで濃い」歴史のドラマを知ると、西洋絵画はもっと面白くなる。


なぜ、五郎さんはこの本を書いたのか?

実は、美術の「専門家」になればなるほど、専門的な細かい話にとらわれてしまい、美術全体を「ざっくりと分かりやすく面白く話すこと」が難しくなってしまう。だからこそ、五郎さんはあえて専門家ではなく「ただのファン(素人)」としての目線に立ち、初心者と同じ目線で、自分が本当に「面白い!」と思ったポイントだけを、難しい専門用語を使わずにみんなに伝えたかったのだと思う。

五郎さんが遺してくれたこの本は、「絵画って、こんなに自由で、こんなにツッコミどころがあって、面白いものなんだよ」と、私たちの背中をやさしく押してくれる温かいメッセージにあふれている。

August 2024 calendar with handwritten notes and circled dates for events

日本の八月: 歴史を刻む三つの日付

八月に入ると、日本人には三つの日付が近づいてくる。六日、九日、そして十五日。

不思議なのは、この三日が今も日付のみで記憶されていること。多くの歴史的事件は、やがて年号だけが残り、日付は薄れていく。関ヶ原が九月十五日だったと即答できる人は少ない。

だがこの三日は違う。八月六日と言われて、何の日か分からない日本人はまだ少ないだろう。

日付が残るのは、その日が毎年めぐってくるから。年に一度、同じ暑さと同じ蝉の声の中で、日本人はその日を通過する。

一方で、その日を知る人は、年々少なくなっていく。体験は必ず途絶えるから。

今年もまた、あの三日が来る。空を見上げて思いを馳せる時間を、少しだけ取りたい。

復旧を願うばかり:水のありがたみ

熊本で、老人ホームが断水のために給食を作れず、弁当でしのいでいると報じられていた。地震から一週間が経とうとしている。

私に断水の記憶はほとんどない。あるとすれば、冬の朝に水道管が凍って水が出なくなった、その程度のこと。蛇口をひねっても何も出てこない。しばらくすると親が湯をかけたか、日が高くなったかで、また出るようになる。半日にも満たない不便。それを断水の記憶と呼ぶのは、被災地の方々に申し訳ない気がする。

つまり私は、水に本当に困ったことがない。おそらく大多数の日本人がそうだろう。

日本語には「湯水のごとく使う」という言い方がある。惜しげもなく浪費するという意味だ。この比喩が成り立つのは、湯と水がふんだんにある国だったからにほかならない。世界には、この言葉が意味をなさない土地がいくらでもある。

蛇口をひねれば水が出る。この一事のために、実はどれほどの技術と労力と歳月が積み上げられてきたか。当たり前になったものほど、その内訳とありがたみは見えなくなる、と改めて思う。

猛暑・酷暑の中、水のない日を迎えている方々のことを思う。一日も早い復旧を願うばかりである。

Thick coiled rope on wooden surface with intricate shadow on rough wall

禍福はあざなえる縄のごとし

災いと幸福は、寄り合わせた一本の縄のようなもの。古い言葉です。

縄というのは、二本の糸をより合わせて作ります。どちらか一方だけでは、縄になりません。表に出ている糸は、少し進めば裏へ回る。裏に隠れていた糸が、次には表に出てくる。

今は、災いの糸が表に出ている時です。それも、これ以上ないほど強く。停電の暗がりで、暑さに耐えながら、なぜ自分たちが…と思われていることでしょう。当然です。

ただ、縄はまだ続いています。この古い言葉の通り、今表に出ているものが、ずっと表であり続けることはありません。

気の利いた慰めは持ち合わせていません。どうか少しでも休んでください。