昨夜、京都では五山の送り火が焚かれた。
予備校時代の一年を、私は京都で過ごした。あの夏、住んでいた学生アパートの屋上から、送り火を見た。山肌に炎の文字が浮かび上がり、しばらく燃えて、少しずつ小さくなって消えた。それだけの、静かな時間だった。
当時の私は、あれが死者を送る火だということを、頭では知っていながら、たいして分かってはいなかったと思う。受験のことで頭がいっぱいの十八歳に、死者を送るという感覚は遠かった。
年を重ねると、送るべき人が増えてくる。
盆というのは、考えてみると不思議な習慣である。年に一度、死者が帰ってくる。迎え火を焚いて招き、数日ともに過ごし、送り火を焚いて送り出す。死者が「行き来する」という前提が、この国にはある。西洋の墓地を歩いたときに感じたのは、あちらの死者は「そこに眠っている」ということだった。訪ねていくものであって、帰ってくるものではない。無論、どちらが正しいという話ではない。
あの一年、私は自分の将来のことばかり考えていた。今は、送り火のほうを思い出す。
夏が、少し終わった。
