「ハッカー」と聞いて、どんな人物を思い浮かべるだろうか。
暗い部屋でパソコンに向かい、他人のシステムに忍び込み、情報や金を盗む。おそらく多くの人にとって、「ハッカー」とは犯罪者の別名である。
だが、この言葉はもともと褒め言葉だった。
1950年代の終わり、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)に、鉄道模型を走らせる学生のクラブがあった。彼らは、線路を切り替える複雑な配線の仕組みに熱中した。その仲間内で、気の利いた工夫や、思いもよらない巧みな解決のことを「ハック」と呼んだ。それをやってのける者が、ハッカーである。
やがてこの学生たちの関心は、模型の配線から、大学に入ってきたばかりのコンピューターへと移っていく。彼らにとってハッカーとは、機械の仕組みを隅々まで理解し、誰も考えつかない方法で動かしてみせる、技と遊び心を兼ね備えた人のことだった。
情報は自由に共有されるべきだ、という独特の倫理も生まれた。後のパソコンやインターネットの文化は、この人々の系譜の上に築かれている。
この大学には今も「ハック」の伝統が残っている。大学の象徴である大きなドームの屋根の上に、ある朝、パトカーが載っていたことがある。誰がどうやって運び上げたのかと人々を驚かせる、手の込んだいたずら。そこには悪意ではなく、知恵比べの楽しさがある。
言葉の意味が変わり始めたのは、1980年代。コンピューターが社会に広がり、他人のシステムへの侵入事件が報じられるようになると、新聞やテレビはその犯人たちをハッカーと呼んだ。映画もそれに続いた。本来のハッカーたちは困惑し、悪意をもって侵入する者には「クラッカー」という別の名を使うべきだと訴えた。だが、世間の言葉の流れは変えられなかった。
言葉が悪い意味に変化する例は、歴史に珍しくない。
古代ギリシャの「ソフィスト」は、もともと知恵ある者、教える者を意味した。それがやがて、詭弁を弄する者の代名詞となり、今日の「詭弁」を意味する英語の語源にまでなった。
暴君を意味する言葉の元になったギリシャ語「テュラノス」も、本来は、血統によらず民衆の支持や武力によって権力を獲得した一代限りの指導者というだけで、善悪の意味は含まれていなかった。名君も多くいた。それが、権力を濫用する者の印象とともに、悪名の代名詞になっていった。
技を持つ者の名は、その技が恐れられたとき、悪名に変わるのかもしれない。
もっとも、ハッカーという言葉は、完全に堕ちきったわけではない。今では、システムの弱点を見つけて企業に報告し、報奨金を受け取る人々を「ホワイトハッカー」と呼ぶのはご存知の通り。西部劇で善玉が白い帽子、悪玉が黒い帽子をかぶっていたことに由来する呼び方だ。
日本でも、短期間で集中的にソフトウェアを開発する催しを「ハッカソン」と呼び、暮らしの小さな工夫を「ライフハック」と言う。「ハック」という言葉には、まだあの学生たちの遊び心が生きている。
結局のところ、技そのものに善悪はない。システムの仕組みを深く理解し、誰も思いつかない入口を見つける力は、守る側にも攻める側にも同じように役に立つ。名前を分けるのは、技ではなく、その技を何に使うかである。
鉄道模型の配線に夢中になっていた学生たちは、自分たちの呼び名が、半世紀後に強盗の代名詞になるとは想像もしなかっただろう。
言葉は、使う人々の恐れや憧れを映して変わっていく。